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「せつない芸術家」とは
更新日:2022年2月14日
せつな‐い
【切ない】
悲しさ・寂しさなどで、胸が締めつけられるような気持ち
「せつない芸術家」とは
苦悩や努力を積み重ながら、多くの人に影響を与える新しいアートを生み出すためにがんばっているのに何かしら報われない人のこと
日本でも人気のある印象派の画家たち、ゴッホやゴーギャン、モネ、マネ、ロートレック、モジリアニ…彼らの描く絵は、なぜ人々の心を打つのでしょう。それは情熱や才能がありながらも評価されなかったり、生き方が不器用だったり、貧困だったりとどこか報われない切なさが彼らの表現の源にあるからではないでしょうか。
彼ら芸術家自身と創造したアート作品は「気質、習慣、思いの強さ、誰かの支え、出会い、環境、…」とさまざまな境遇(組み合わされた条件)の違いによって異なる魅力や特徴、それぞれが唯一無二のものとして構築されたといえます。
芸術家は十人十色で、それぞれが違った生き方をしています。それだけ生き方にはたくさんの選択肢があるということです。幕末志士の坂本龍馬が『人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。』と語っていたように十人十色の自分らしさを見つけて、開放された気持ちになっていきたいものです。

逃亡生活の売れっ子画家
【名 前】 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ
【死 亡】 1610年7月18日 イタリア ポルト・エルコレ

【芸術活動】絵画制作
光と陰のコントラストで劇的に演出した明暗法を確立し絵画を描きました。ローマ・カトリック教会の改革運動を背景としたバロック美術の先駆者としての役割を果たしました。卓越した描写、ドラマティックな明暗、人物ひとりひとりの感情の巧みな表現は、イタリアだけではなく、オランダにおいても「カラヴァッジオ派」という一派を誕生させ、後世の画家たちに多大な影響を与え、一世を風靡したのです。

『聖マタイの召命』 1599-1600年
カラヴァッジオの傑作中の傑作であるこの作品は、展示されている教会堂の窓から差し込む現実の光の調和を考えて本作の光の効果を設定し、現実世界と絵画世界の教会を取り払う工夫のひとつです。
【生息地】 バロック期イタリア
【特徴・習性】
絵の達人・気性が激しい・争いごとが絶えない・孤独・過ちを繰り返す愚か者・
名高い犯罪者

『ホロフェルネスの首を斬るユディト』 1598年 - 1599年
【エピソード】 「短気は損気」
絵で光と影の演出革命を起こしたバロック絵画の売れっ子スター。7歳の時に天涯孤独の身となり、1592年に空前の建築ブームで仕事が多かったローマに単身で向かい、画家ジョゼッペ・チューザリの工房に入門しました。絵の修業をして、花や静物の描写を担当し画家としての技量を知られるようになりますが1594年に病気を理由に工房を解雇され独立します。

『果物籠を持つ少年』1593年 - 1594年

『果物籠』1596頃
1601年(30歳)頃から素行不良が目立ち始め、1606年に賭け事の口論で殺人を犯してしまい逃亡者になってしまいます。一度は絵の才能で免罪されますが、激しい気性のため罪を繰り返し、逃亡生活の中で絵画制作の依頼を受けながらも歴史に残る名作を描き続けました。奇しくも遺作と同様に斬首刑で幕を閉じた人生も絵も劇的だった37年間の生涯を終えたのです。

『ゴリアテの首を持つダビデ』 1609年 - 1610年

『洗礼者聖ヨハネの斬首 』 1608年
【余談ですが】
西洋では薄明りや夕暮れ時を楽しむ習慣があり日が暮れてもなかなか明かりをつけません。薄明りの中で過ごす時間が多いほど明暗の感度が敏感になます。この習慣も西洋画が光と影にこだわり、明暗法が発展した要因でもあります。
弟子になめられていた大天才
【名 前】 レオナルド・ダ・ヴィンチ
【生まれ】 1452年4月15日 イタリア アンキアノ
【死 亡】 1519年5月 2日 フランス アンボアーズ クロ・リュセ城

【芸術活動】絵画・壁画(フレスコ)制作/美術解剖学/建築/自然科学
まだ学問的にアートといった縛りのなかったルネサンス期の万能人。

『ウィトルウィウス的人体図』、1485年頃
【生息地】 ルネサンス期イタリア
【特徴・習性】
万能・大天才・マイペース型イケメン・気分屋・飽きっぽい・人望がない
【エピソード】 『名馬に癖あり』
ルネサンス期のミケランジェロ、ラファエロらと三代巨匠(芸術家)の一人。「最後の晩餐」「モナ・リザ」などで誰もが知っている画家ですが、それは彼の単なる一面であり、環境の観察に膨大な時間を費やしていた科学者でもあるのです。

『モナ・リザ』1503年 - 1505 1507
「最も高貴な喜びとは、理解する喜びである」と語るレオナルド・ダ・ヴィンチは「凡庸な人間は、注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、味わうことなく食べ、体を意識せずに動き、香りに気づくことなく呼吸し、考えずに歩いている」と嘆き、あらゆる楽しみの根底には感覚的知性を磨くといった真面目な目的があると提唱していました。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』1495年 - 1498年 イタリア
ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれている遠近法(一点透視図法)を完璧に実証している絵。その消失点であるキリストのこめかみには穴が空いています。ダ・ヴィンチは芸術的な感性が豊かなだけではなく、この穴からひもを引っ張り作図するなど技法や作業法を論理的に開発する研究者でもありました。

大天才のざんねんな一面
多岐にわたり才能を発揮して探求心を持ち続けた彼ですが、地位や名誉、世間の目や評価には関心がなかったようです。依頼された大切な仕事の期限を守らず、飽きっぽく途中で投げ出してしまうほどいい加減な一面がありました。
彼の工房で修行をする弟子たちに対しても教育熱心ではなかったようで、意外にも尊敬される師匠ではありませんでした。どちらかというと気分屋でマイペースのいい加減なアウト人間として、弟子からはバカにされていたようです。
弟子の若きダ・ヴィンチに憧れた師匠ヴェロッキオ
【名 前】アンドレア・デル・ヴェロッキオ
【生まれ】 1435年 イタリア フィレンツェ
【死 亡】 1488年10月10日 イタリア ヴェネツィア

【芸術活動】 彫刻・絵画制作/機械工学/数学/音楽/教育
イタリア ルネサンス全盛期、フィレンツェの天才芸術家。また、弟子の才能を引き出し伸ばすことに長けていた彼は、教育家としても第一人者でした。そんな師匠ヴェロッキオの工房には、大勢の芸術家たちが弟子として集まっていました。同時代の天才画家ボッティチェリも彼の助手をしていた。
【生息地】 ルネサンス期イタリア
【特徴・習性】
天才・人望が厚い・万能・苦労人・人格者
【エピソード】 『ヴェロッキオ』とは「本物の目」という意味
修業時代の若いダ・ヴィンチは、師匠であるヴェロッキオが制作する『ダビデ像』のモデルに抜擢されるほどの美男子でした。容姿端麗で豊かな才能にも恵まれた弟子のダ・ヴィンチに師匠のヴェロッキオは好意と嫉妬が入り混じった複雑な感情を抱いていたのかもしれません。


ヴェロッキオ作『ダビデ像』
師匠に引退を決意させた弟子の絵:「青は藍より出て藍より青し」
弟子のダ・ヴィンチに描かせた部分の絵を観て師匠ヴェロッキオは引退を決意しました。若きダ・ヴィンチの才能、美しい容姿などさまざまな意味でヴェロッキオは芸術家として第一線で弟子たちをけん引する自信と生命力の低下、老い、必ず訪れる新旧交代のタイミングを悟ったのかもしれません。

『キリストの洗礼』
⇒ キリストの洗礼(部分)

弟子ダ・ヴィンチが描いた天使↑ ↑師匠ヴェロッキオが描いた天使
美男子で目がハートだけど顔がデカイ彫像
【名 前】 ミケランジェロ・ブオナローティ
【生まれ】 1475年3月6日 イタリア カプレーゼ・ミケランジェロ

【芸術活動】 彫刻・壁画制作/建築/詩
ルネサンスの三大芸術家(ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ)の一人。斬新で力強い表現を次々と生み出しました。
【生息地】 ルネサンス期イタリア
【特徴・習性】
負けず嫌い・激情型・執念深い・自尊心が強い・傲慢・孤独

『ピエタ』1498年 - 1500年
【エピソード】
この時代、男色の芸術家は珍しくなくミケランジェロも女性像の作品でも男性モデルを描いたデッサンをもとに制作していました。そのため女神をテーマにした作品でも筋肉質でたくましく感じられるのです。そんな独創的な新作の制作途中を見られないように一人こもって仕事をするような負けず嫌いでした。特に先輩であり既に世間で高い評価を得ていたダ・ヴィンチに対しては、「絵しか描けないくせに」とライバル心をむき出しにしていたようです。
イケメンだけど顔がでかいダビデ像
遠近法は絵画だけの技法ではありません。ミケランジェロは『ダビデ像』を見上げる位置にセッティングすることを想定して、下から見た時にプロポーションが自然にみえるように造りました。だから彼の造ったダビデ像を正面から見ると胴体に対して、不自然に顔が大きく腕や首が長いのです。

『ダビデ像』 1501-1504年イタリア

目がハートマークの『ダビデ像』※割礼・キリスト教の象徴
執念深い芸術家の「芸術的な復讐」

ミケランジェロ『最後の審判』1541年 イタリア

裸体の群像で埋められた不謹慎な絵だと批判した儀典長ビアージオの股間に蛇が食らいつき辱めを受けている絵が壁画の画面右下に描き加えられています。ミケランジェロのプライドの高さと執念深い性格が伺える芸術的な仕返しです。
斬新!「ルネサンスのコスプレ大会」
【名前】 ラファエロ・サンティ(イタリア人)

【芸術活動】 絵画・壁画制作/建築
同時代の芸術家たちをリスペクトし研究したラファエロは、クアトロチェント(15世紀)の多くの芸術家たちの念願だった自然の忠実な描写ということに固執しませんでした。彼は心に浮かぶ不変の型に意識的に従おうとしました。優雅でバランス感覚に優れた絵画を確立し、その後の西洋絵画の美の基本として崇められました。
【生息地】 ルネサンス期イタリア
【特徴・習性】
社交界の花・女好きの色男・天才・温厚・優しい・素直・薄命

『ガラテイア』1512-14年頃
【エピソード】 『美男薄命』
同じルネサンス期の大芸術家ダ・ヴィンチやミケランジェロとは異なり、女性が好きだった若き天才画家ラファエロは、社交的で他者の良い所を素直に受け入れる肯定的な性格だったようです。1509年-1510年に描いた『アテナイの学堂』では、レオナルド・ダ・ヴィンチのソクラテス役などその当時の巨匠をリスペクトしていたことが伺えます。

優美な曲線で聖母像をたくさん描き、あまりにも美しい絵の女性に魅了された人にモデルは誰だとたずねられた時、「ある概念に従ったまでだ」と答えました。

『大公の聖母』1505年
性格も温厚なラファエロは社交界でも人気者で人生絶好調でしたが、『キリストの変容』を作製中だった1520年の誕生日4月6日に早世してしまいます。また、この年の聖金曜日であったため死んだ瞬間、ヴァチカン宮殿にヒビが入ったという伝説もうまれるほど神格化されたのです。

『キリストの変容』1520年
芸術界のストーリーテラー
【名 前】 レンブラント・ファン・レイン
【死 亡】 1669年10月4日 オランダ アムステルダム

【芸術活動】 絵画制作
【生息地】 オランダ
【特徴・習性】
研究熱心・商売人・孤独・妄想癖
【エピソード】
商業絵画を始めたのは、陽気な大酒飲みのオランダ人

同じ料金を払っているので、依頼者たちを平等に描いていた集団肖像画:例
バロック時代の大巨匠レンブラント作品 16-17世紀 イタリア
この絵は、依頼者である医学者の研究心と学会の評判を上げる絵として絶賛されました。

『テュルプ博士の解剖学講』 1632年

『フランス・バニング・コック隊長の市警団』 1642年
バロック絵画の巨匠レンブラントは、この作品がきっかけで落ち目になった。 バロック時代、画家はクライアントの依頼に忠実なデザイナーだった。集団肖像画『夜警』は、勝手に物語風にして、不公平だと依頼者たちに叱られた。
芸術界の大成功者を悩ませたこと
【名 前】 ピーテル・パウル・ルーベンス(ドイツ人)
【死 亡】 1640年5月30日 ベルギー アントウェルペン

【芸術活動】 絵画・壁画制作/外交官
バロック絵画の巨匠でありながら、国同士のいざこざや親交問題を文化的に解決する外交官でもありました。
【生息地】 イタリア⇒スペイン
【特徴・習性】
天才・高い知性・豊かな教養・語学力・人望に厚い・大成功者

『聖母被昇天』(1625年 - 1626年)
【エピソード】「天は二物を与えず」
19世紀のイギリスで書かれた児童文学『フランダースの犬』の主人公ネロが祈りを捧げていたアントウェルペン大聖堂のマリアの絵『聖母被昇天』もネロが見たがっていた絵画である『キリスト昇架』と『キリスト降架』もルーベンスが描いた絵です。

『キリスト降架』 1611-1614年
芸術家としても外交官としても大成功したルーベンスは、仕事関係の宴会つづきなど豊かな生活習慣のために慢性の痛風を患ってしまいます。そんな贅沢病に悩まされたあげく、心不全により63歳で亡くなりました。その時、死別した前妻との間に生まれた3人の子女とルーベンスが53歳の時に再婚した16歳の妻が、その後に生んだ5人の子供たちがいました。ルーベンス死去時に末っ子の子は、まだ生後8カ月の乳児でした。仕事では大成功者となったルーベンスですが、家庭的には思い残すことがあったのかもしれません。
お金にうるさかった画家
【名 前】 エル・グレコ(ギリシャ人)

【芸術活動】 絵画制作
聖人画・宗教画の巨匠画家。彫刻作品の原案の絵、大聖堂の祭壇の考案や礼拝堂の建築設計も手掛けました。自分らしさを追求した最初の画家といえますが、独創的で斬新な表現だったので世の中で評価され仕事の依頼がくるまでに時間がかかりました。
【生息地】 ギリシャ⇒イタリア⇒スペイン
【特徴・習性】
努力家・自信家・貧乏性・自尊心が強い

【エピソード】『聖人を描く欲深い画家』
若いころは貧困生活をしていた貧乏画家でした。だから芸術家として成功して裕福になってもお金に対する執着心が強く、自分が描いた絵の報酬代金をいつも高く見積もっていたので依頼主と揉めることが多かったようです。
この時代の絵画の値段は、まず依頼主側、制作側で、それぞれが作品の値段を決める査定人を選び、お互いの見積もりを考慮して決められていました。その際に折り合いがつかない場合は、依頼側の選んだ調停係の価格調整を優先していたので、画家側が不利になる場合が多かったのです。そのことが自尊心の強いグレコを晩年まで悩ませていたのです。グレコは生涯、金銭のトラブルに振り回されたのです。
焼き捨てられた絵
安井曽太郎(東京美術学校【現在の東京藝術大学】 教授)のドローイング作品
日本では浅井忠に師事し、同時期の海老原龍三郎らと関西で洋画を学んでいた。その後、フランスに渡りアカデミー・ジュリアンで学ぶ(以前の作は焼き捨てたとのことで、彼の初期作品はほとんど現存していない)。
フランス滞在の7年間の間にイギリス、イタリア、スペインなどへも旅行している。 フランスでの作品と渡欧前のデッサンとでは大きく異なった点があります。 木綿問屋の坊ちゃんの曽太郎は家の使用人らをモデルに素描していたようですが、渡欧後とそれ以前と明らかな変化が分かります。

関西の洋画研究所で学んでいた時期と渡欧して、何を学び吸収したのか想像してみてください。 描写を意識した素描から、空間性や人体への視点、表現テーマが生まれ、人体の躍動感や空間の臨場感がダイナミックに描かれたデッサンになっています。また、対象物を見たまま写し取っていた初期作品と比較すると見上げた視線の動きを考えた構成になっています。
これら作家の作品展開をみるとドローイングの上達は、単に技術的なスキルアップだけではなく、対象物の捉え方や環境の変化、自分の視点(テーマ)も大きく影響してくることが分かります。 対象物の捉え方、見方や描き方、制作のテーマは様々で、作家のキャラクターや生き方、表現手段などの数だけ「画風」があるといってもいいでしょう。
自分のことをアーティストだとは思っていないアーティスト
ダルトン・ゲッティ
9.11以降、犠牲者のために1日1本、鉛筆の芯を彫刻しているアメリカの大工さん。
彼は、自分の国の犠牲者のために自分に出来ることをみつけてやっているだけで、
自分のことをアーティストだとは思っていない。






画狂老人 葛飾北斎

富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』 1831-33年(天保2-4年)頃 葛飾北斎
世界的にも著名な画家 葛飾北斎は「70歳までに描いたものは取るに足らない」と、晩年に掛けた信念、衰えない絵への執着心を示していました。様々な表情の富士山を描いた代表作《冨嶽三十六景》は、北斎がじつに70代になってから制作されたものです。このシリーズは、当時に熱狂的な富士山信仰もあったことで浮世絵史上屈指のベストセラーとなりました。

富嶽三十六景『凱風快晴』 1832年 葛飾北斎
その後10年ほど浮世絵の発表を続けますが、最晩年はまた絵手本と肉筆画、いわゆる挿絵画家としても活躍しました。それからも自ら「画狂老人」と名乗り、88歳で没するまで創作意欲は衰えることはありませんでした。

北斎が6歳のときに江戸で浮世絵版画の多色摺の技術が完成し、華やかな織物に例えられ「錦絵」と呼ばれました。絵草紙屋の店頭に並んだ錦絵は、幼い北斎にとって心を躍らせる最新鋭のマスメディアだったわけです。10代の頃に北斎は木版画の彫師として修行を積み、やがて浮世絵師に弟子入りし、おもに役者絵を描いていました。90年におよぶ北斎の人生は、物心ついて間もない頃から、浮世絵版画の歴史とともにあった”錦絵の申し子“と言えます。

88歳と、当時では長命だった葛飾北斎ですが、没するまでに、当時のペンネームともいえる号を30回も改めました。主な号として挙げられているものだけでも、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」の6つ。晩年に至っては「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」というユニークなペンネームを名乗っています。葛飾北斎が次々と改号していた理由には、号を弟子に譲ることで収入を得ていたという説もありますが、実際、著名な「北斎」の号も弟子に譲っていたようです。また、自らの才能をオープンにすることをよしとしない性格だったからという説もみられます。35歳の頃、北斎は「俵屋宗理」と名乗ります。琳派の祖とされる俵屋宗達(生没年未詳)との関係性をほのめかす名前ですが、詳しいことはわかっていません。

『紅白梅図屏風』
行儀作法を知らず挨拶はしない、金銭に無頓着、身なりには気を遣わない、歩く時に呪文を唱えていたなど、葛飾北斎の奇人エピソードは多々あります。改号30回に加え、引っ越しは93回したともいわれている葛飾北斎。たび重なる引っ越しの理由もふるっていて、掃除をしないので、部屋が汚れるたびに引っ越していたとも言われています。また、出来の悪い着物を身に着けて、他人から「田舎者」と言われることを密かに喜ぶような気性だったという話もあります。

『雪中虎図』 1849年 葛飾北斎
絵を描くことに関して、非常にストイックで、いくつになっても探求心が衰えることのなかった葛飾北斎。「私は73歳でようやくあらゆる造形をいくらか知った。90歳で絵の奥義を極め、100歳で神の域に達し、110歳ではひと筆ごとに生命を宿らせることができるはず」と、死の数ヶ月前に描いたという《雪中虎図》は、虎の質感や肢体が独特の雰囲気で老いてなお上を目指す北斎の心のようです。
今際の際、「天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら、いや、あと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう」と言ったと伝えられています。

茶道をデザインした千利休の意図
どんなに位の高い人でも茶室にお辞儀をして入るように「躙り口」を考えた。 お茶を飲み比べて楽しんでいただけの文化を「身分を超えて、おいしいお茶を飲んでもらいたい。」そのためにどうしたらいいのかを考えた千利休は茶道をデザインした。



画家フィンセント・ファン・ゴッホと弟テオの墓は寄り添っている。

ゴッホの遺作『花咲くアーモンドの枝』 情熱的な絵を描き苦悩し続けているゴッホをいつも支えていた弟テオ。
彼の生まれたばかりの息子のために春を待つかわいい希望の花を最後に描き残して亡くなった。

『花咲くアーモンドの木の枝』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ

フィンセント・ファン・ゴッホ『自画像』(1887年春)
才能は出会いで開花していく
近代アートの巨匠パブロ・ピカソがわかると面白い

『アビニヨンの娘たち』 1907年-1908年
正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に 2回 結婚 し、3人 の女性との間に 4人 の 子供 をもうけた。 「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間が
かかったものだ」
「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ。」
= 多重視点構造 ⇔単視点構造(ルネサンス以降の絵画)
ルネサンスから引き継がれていた遠近法を否定した。

『泣く女』 1937年
■『青の時代』のピカソ(1901~1904年) 1901年、友人の一人がこの世を去ってしまいます。とてもショックを受けたピカソは、貧困や孤独、絶望をテーマにした冷たい青色を多くつかった。

「盲人の食事」

「人生 La Vie」 1903年
■『ばら色の時代』のピカソ(1904~1907年) 暗い『青の時代』から急に明るい色調の絵画を描きだしたきっかけは、恋愛でした。 ピカソは1904年に オリビア という女性と出会い、付き合い始めます。サーカスや旅芸人を題材にした明るく、にぎやかな絵画を描いています。 この頃に描いた絵はよく売れ、ピカソ(23歳)は 有名な画家 になっていきました。

『サルタンバンクの家族』

『パイプを持つ少年』 1904年-1907年
1907年、新しい恋人 エヴァ(本名はアンベール)。キュビズムの絵画に変化していった(ピカソ26歳)。
■キュビズムの時代(1907~1916年) ピカソの絵画と聞いて思い浮かべるのは、このキュビズムの時代の絵画でしょう。1915年には恋人のエヴァが病気でこの世を去ってしまい、ピカソは一人になってしまいます。

『ヴァイオリンと葡萄』 1912年
■新古典主義の時代(1918~1925年) ピカソは、キュビズムの絵画をずっと描いていたわけではありません。この時代はゆったりとした人物をイキイキと描いています。人物たちの形もまるくなっているのが特徴です。

『海辺を走る二人の女』 1922年
オルガ という女性と出会い、結婚します。1920年代の後半からは、オルガとの生活がうまくいかなくなります。ピカソ(39歳)はアトリエに閉じこもり、挿絵を多く描くようになりました。
■シュルレアリスムの時代(1925年~) この時代から晩年にかけてのピカソの作品はシュルレアリスムの手法だけではなく、様々な手法を取り入れています。

『三人のダンサー』 1925年
ピカソが46歳のとき、17歳のマリー=テレーズ・ワルテル という女性を出会い、付き合い始めます。 ピカソはオルガと離婚できずに長い別居生活が始まります。 マリーは1935年にマヤという女の子をうみます。ピカソはマヤがうまれた後に ドラ という女性と付き合いはじめます。 1936年からのスペインでの内乱をきっかけに、ピカソは1枚の絵を描きます。攻撃された町の名前を、そのままタイトルにした有名な『ゲルニカ』です。
戦争の悲しみ、憎しみ、悔しさ、苦しさ…が表現された『ゲルニカ』。 ドイツ兵から「この絵を描いたのはお前か。」と聞かれた近代美術の巨匠ピカソは 「この絵を描いたのは、あなたたちだ。」と答えました。

『ゲルニカ』 1937年
1943年、21歳の 女性画家フランソワーズ と付き合い、1945年にドラと別れました。フランソワーズと付き合っていたときのピカソ(62歳)は、絵画を制作しつつ、陶器もつくっていました。フランソワーズは1953年に子供をつれて出て行ってしまいます。 一時はショックを受けたピカソ(72歳)ですが、またすぐに別の女性 ジャクリーヌ と付き合いはじめ、2度目の結婚をします。 ピカソは一生の間に13,000点の絵画、100,000点の版画、34,000点の挿絵、そして300点もの彫刻を制作しています。 一日あたり2~3枚以上のペースで絵画や版画を制作していた計算です。

『鳥』 1948年
ピカソの絵画で特に印象深いのが、キュビズムの時代です。そのため、ピカソの絵が難しすぎてよくわからないという人や下手な絵なのになぜか有名な画家、と思っている人も多いのは確かです。 ですがピカソの絵画の時代の移り変わりを見ていくと、ピカソはまさに天才だと実感できるはずです。ピカソの絵画は、全て考え抜かれて描かれているのです。ピカソはこんな言葉を残しています。
「なぜ自然を模倣しなければならないのか?それくらいなら完全な円を描こうとするほう
がましなくらいだ」
〇アバンギャルド(反体制) ※伝達手段の発達(映画)。 •キュビズム(多重視点構造⇔単視点構造)。 〇それまでの具象絵画が一つの "視点" 視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな
角度から見た物の形を一つの画面に収め、 ルネサンス以来の"一点透視図法" 一点透視図
法を否定した。 〇ルネサンス以降の遠近法を放棄し、描く対象を複数の視点から3次元的に捉え、1枚の
平面(2次元)の中に表現した。 ルネサンス以来の「単一焦点による "遠近法" 遠近法」の放棄(すなわち、複数の視点に
よる対象の把握と画面上の再構成) 形態上の極端な解体・単純化・抽象化 を主な特徴と
する。 "フォーヴィスム" フォーヴィスムが色彩の革命であるのに対して、キュビスムは
形態の革命である、という言い方をされることもある。要は、正面、横、後と色んなと
ころから“見た目”を一場面にまとめたといったことがキュビズム。ちなみにフォーヴ
ィスムは"キュビスム" のように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図
に従属するものではなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に
使われるべきであるとする。 出会った女性たちや周りの友人、ライバルたちによって”天才ピカソの才能”も”独創的な作品”も造られていったといえる。
ピカソは、友人(画家)のアトリエに招待されなくなっていった。それはピカソがライバルたちの新作を一目みただけで”模倣”ではなく完全に自分の作品として創造する力を持っていたからだ。他者の新鮮な情報を一瞬で理解し、自分の持っている情報と再構築して個性にしていった。
創造のコツは、それがどこから得たものかわからないようにすること。個性とは、選択して構築してきた情報の違い。独創性とは、心揺さぶられたこと、欲求、興味で選んで記憶している情報素材を新鮮な気持ちになれる組み合わせで再構成されること。

生きざまがせつない芸術家 家族を守れなかった頼れるお父さん
【名前】 ネアンデルタール人

【芸術活動】 彫刻制作/歌

【生息地】 ヨーロッパ、西アジア、中央アジア
【特徴・習性】
強靭な肉体・家族単位で行動する・歌で会話をする
・エピソード
芸術家のような表現力とプロレスラーのような強靭な身体に恵まれ、手先も器用な頼れるお父さんをリーダーとして家族単位で行動していました。だから他の家族に頼ることがなく、氷河期の厳しい環境を乗り越えられずに全滅してしまったのです。
筋骨隆々の体と高い知能があったからこそ組織の力に頼らないで、強い絆と信頼感で結ばれていた家族で行動していました。強く頼れるお父さんをリーダーとするネアンデルタール人の家族は、助け合う仲間や頼れる組織もなく氷河期を生き残ることができなかったのです。
意思疎通は語彙力ではなく、歌って思いを伝える表現力
諸説ありますが、さまざまな壁画を描き残しているクロマニョン人に対して、ネアンデルタール人は象牙を素材とした彫刻『ライオンマン』などの彫刻(立体)を造っていました。また、ミュージカルのように歌でコミュニケーションをとっていたといわれる芸術家ネアンデルタール人は、現代人より大きな頭(脳)と強靭な肉体を使って、身の回りにある様々なものを利用し工夫して投てき具など人の機能を補完する道具を次々に造り出していたと考えられます。
クロマニョン人ほど声帯が発達していなかったネアンデルタール人は、ミュージカルのように歌で伝えたい思いを表現しコミュニケーションをとっていました。

ライオンマン

ブリュニケル洞窟ストーンサークル
【余談ですが】
絶命の危機が進化のチャンス

生き残った芸術家の祖先
人類の祖先は、想像した動物の絵や宗教的、呪術的なストーリー、シンボルを創造するなどの虚構により、認知能力が発達した。
※認知的能力(学習、記憶、意思疎通の能力)
【創造性により脳(思考力)が劇的に発達】
•80万年前に火を発見し、30万年前には一部の人類種が日常的に使用。
•7万年前から3万年前にかけて、人類は舟、ランプ、弓矢、針(暖かい服を縫う)を
発明、芸術と呼べる品々、宗教や交易、社会的階層化の最初を創造していった。
•ネアンデルタール人は、肌は白く、金髪、碧眼、彫りの深い顔、奥目、現代人の風貌
で、プロレスラーのような強靭な体を持ち、家族単位で生活していた。
•クロマニョン人は、猿人にちかく、体はひ弱だったが声帯が発達して意思疎通の表現の
幅が広かったので組織として行動することができた。
•コミュニケーション能力の差で、ネアンデルタール人は氷河期に死滅し、クロマニョン
人は生き残れた。
クロマニョン人(ホモ サピエンス)は、 虚構により単に物事を想像するだけではなく、
集団でそうできるようになった。無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できるようにな
り、世界を支配した。
【名前】 クロマニョン人

【芸術活動】 壁画制作


【生息地】 ヨーロッパ、北アフリカ
【特徴・習性】
道具が使える・集団行動ができる・声帯が発達している。

【エピソード】
他の動物とは違い、火や道具を扱える。卓越した観察眼と画材を創り出す創造性と表現力で様々な壁画を描いていました。
同時期に生息していたネアンデルタール人に比べると体がひ弱で一人で狩りをする力がありませんでした。だからこそ群れをつくり、コミュニケーション能力・組織力・順応性を身につけて激変する環境を生き抜いてきたのです。

石器人の創造的才能
クロマニョン人が描いたとされるショーヴェの洞窟壁画には、その時代に生息していた野生の牛、馬、サイ、ライオンなど13種類あり、その中にはフクロウやハイエナやヒョウなど動物の絵や手形といった壁画が数多く残されています。でこぼこの壁面に線を重ねてコマ送りのように描かれている動物の絵が、当時の照明手段であった松明の火が揺れることで動いているように感じられる表現など、現在のアニメーション技術を連想させます。はるか昔、動物(モデル)を見ながらではなく記憶だけで正確にスケッチできた観察力の高さと、アニメーションの起源ともいえる高度な表現力を成し遂げていたことから、すでに石器人は現代人と変わらない、もしかしたらそれ以上の創造的才能でアート活動をしていたと考えられます。


軟弱、頼り合う習慣、コミュニケーション力、声帯の発達
クロマニョン人は、発達した声帯で様々な言葉を発し絵を描きコミュニケーションをしながら、群(複数の家族)で助け合いながら生きていました。
※生きる力、処世術を身につけたクロマニョン人の知られていないアートな生き方。現代人のような風貌のネアンデルタール人に比べて猿人のようだが高い表現力とコミュニケーション能力に長け、厳しい状況を生き残る組織力があったクロマニョン人。「人は見かけで判断できない」。
【余談ですが】
『アートにおけるエッジエフェクト化』
他分野との多角的な情報交換ができるエッジエフェクトを生み出すことが、ヒトや社会が成長する条件だと考えています。
いつの時代もそれまでのアートシーンの枠を超えて社会で注目(支持)される新しい価値観“現代美術”の研究が求められてきました。進化するビジネスの領域においてもArt思考や美意識、創造性が必要とされている今日、実社会を直視して問題点を的確にとらえて、限られた専門性の壁を越えて協働していく「芸術教育」が必要とされています。
SDGsを目指し始めた世界で、デザインやArt思考が重要視されていることやSTEM教育に[Art]が加えられたSTEAM教育が次世代に求められているように“Art”の社会的役割がますます見直されてきています。日本でも藝大・美大・美術学校で研究する学生の思考力や創造性が実社会で増々、必要とされている昨今、その才能を社会で機能させていくために他分野との協働を実践する『アートにおけるキャリア教育』の研究が重要視されていくと考えています。
持続的な経済成長社会であるSociety5.0の実現のために未来志向を持ちながらもアナログへの回帰、伝統文化の継承の重要性が高まってきている社会で、文化庁や文部科学省の教育改革だけではなく企業や行政の「働き方改革、社会人の学び直し」と社員教育、職員研修も“新しい教育”に取り組んでいます。
アートシーンだけに留まらず、様々な分野で「正解のない問題」への対策で迷走している行政や様々な企業、伝統文化の工房、リカレント教育やSTEAM教育の現場などで、多様な人脈との協働関係を築き多角的な視点を活かした“創造性の促進”が求められています。
想定外な実社会のあらゆる場面で、クリエイティビティを開放し機能させる『アートにおけるエッジエフェクト化』といった従来の美術教育では実現できないArtキャリア教育の必要性を感じています。
「アートにおけるキャリア教育」によって磨かれる“感覚や創造性”は、想定外な社会環境に順応して生き抜いていく力を身につけていくために子供から大人まで生涯、継続して必要なものなのです。
400年間もおおきな争いがなかった民族
【名前】 縄文人
【芸術活動】 陶芸制作/建築
【生息地】 日本列島(沖縄~北海道)
【特徴・習性】
共有できる・争わない

【エピソード】
助け合いによる穏やかな狩猟生活を大陸から来た農耕民族の弥生人に責められて、土地と平和を奪われた。
400年もの長い間、目だった争いごとがなく協調しあって狩猟生活をしていた縄文人のこだわりの生き方「美意識」を見直す。
大陸から農耕生活を持ち込んできた弥生人によって、縄張り意識による争いや競争社会がはじまった時代のアートとサイエンスを見直す。
【余談ですが】
旧約聖書「天地創造」にも語られている争いのはじまりは
