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  • 執筆者の写真sfumita7

才能は出会いで開花していく

更新日:1月21日



出会った女性たちや周りの友人、ライバルたちによって

”天才ピカソの才能”も”独創的な作品”も造られていったといえる。



【名 前】 パブロ・ピカソ

生まれ 1881年10月25日(スペイン マラガ

死 亡 1973年4月8日(フランス ムージャン



近代アートの巨匠パブロ・ピカソがわかると面白い



『アビニヨンの娘たち』 1907年-1908年


 正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に 2回 結婚 し、3人 の女性との間に 4人 の 子供 をもうけた。 


「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」


 「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ。」

 = 多重視点構造 ⇔単視点構造(ルネサンス以降の絵画)

 

 ルネサンスから引き継がれていた遠近法を否定した。


『泣く女』 1937年



■『青の時代』のピカソ(1901~1904年)  1901年、友人の一人がこの世を去ってしまいます。とてもショックを受けたピカソは、貧困や孤独、絶望をテーマにした冷たい青色を多くつかった。

「盲人の食事」


『人生 La Vie』 1903年



■『ばら色の時代』のピカソ(1904~1907年)  暗い『青の時代』から急に明るい色調の絵画を描きだしたきっかけは、恋愛でした。ピカソは1904年に オリビア という女性と出会い、付き合い始めます。サーカスや旅芸人を題材にした明るく、にぎやかな絵画を描いています。 この頃に描いた絵はよく売れ、ピカソ(23歳)は 有名な画家 になっていきました。

『サルタンバンクの家族』


『パイプを持つ少年』 1904年-1907年


 1907年、新しい恋人 エヴァ(本名はアンベール)。キュビズムの絵画に変化していった(ピカソ26歳)。

 

■キュビズムの時代(1907~1916年)  ピカソの絵画と聞いて思い浮かべるのは、このキュビズムの時代の絵画でしょう。1915年には恋人のエヴァが病気でこの世を去ってしまい、ピカソは一人になってしまいます。


『ヴァイオリンと葡萄』 1912年



■新古典主義の時代(1918~1925年)  ピカソは、キュビズムの絵画をずっと描いていたわけではありません。この時代はゆったりとした人物をイキイキと描いています。人物たちの形もまるくなっているのが特徴です。 


 『海辺を走る二人の女』 1922年



 オルガ という女性と出会い、結婚します。1920年代の後半からは、オルガとの生活がうまくいかなくなります。ピカソ(39歳)はアトリエに閉じこもり、挿絵を多く描くようになりました。

■シュルレアリスムの時代(1925年~)  この時代から晩年にかけてのピカソの作品はシュルレアリスムの手法だけではなく、様々な手法を取り入れています。


『三人のダンサー』 1925年



 ピカソが46歳のとき、17歳のマリー=テレーズ・ワルテル という女性を出会い、付き合い始めます。 

 ピカソはオルガと離婚できずに長い別居生活が始まります。 マリーは1935年にマヤという女の子をうみます。ピカソはマヤがうまれた後に ドラ という女性と付き合いはじめます。 


 1936年からのスペインでの内乱をきっかけに、ピカソは1枚の絵を描きます。攻撃された町の名前を、そのままタイトルにした有名な『ゲルニカ』です。

 戦争の悲しみ、憎しみ、悔しさ、苦しさ…が表現された『ゲルニカ』。

 ドイツ兵から「この絵を描いたのはお前か。」と聞かれた近代美術の巨匠ピカソは

「この絵を描いたのは、あなたたちだ。」と答えました。


『ゲルニカ』 1937年



 1943年、21歳の 女性画家フランソワーズ と付き合い、1945年にドラと別れました。フランソワーズと付き合っていたときのピカソ(62歳)は、絵画を制作しつつ、陶器もつくっていました。フランソワーズは1953年に子供をつれて出て行ってしまいます。  

 一時はショックを受けたピカソ(72歳)ですが、またすぐに別の女性 ジャクリーヌ と付き合いはじめ、2度目の結婚をします。


 ピカソは一生の間に13,000点の絵画、100,000点の版画、34,000点の挿絵、そして300点もの彫刻を制作しています。 一日あたり2~3枚以上のペースで絵画や版画を制作していた計算です。

『鳥』 1948年



 ピカソの絵画で特に印象深いのが、キュビズムの時代です。そのため、ピカソの絵が難しすぎてよくわからないという人や下手な絵なのになぜか有名な画家、と思っている人も多いのは確かです。 ですがピカソの絵画の時代の移り変わりを見ていくと、ピカソはまさに天才だと実感できるはずです。ピカソの絵画は、全て考え抜かれて描かれているのです。ピカソはこんな言葉を残しています。

  「なぜ自然を模倣しなければならないのか?それくらいなら完全な円を描こうとするほう

  がましなくらいだ」



 出会った女性たちや周りの友人、ライバルたちによって”天才ピカソの才能”も”独創的な作品”も造られていったといえる。


 ピカソは、友人(画家)のアトリエに招待されなくなっていった。それはピカソがライバルたちの新作を一目みただけで”模倣”ではなく完全に自分の作品として創造する力を持っていたからだ。他者の新鮮な情報を一瞬で理解し、自分の持っている情報と再構築して個性にしていった。



創造のコツは、それがどこから得たものかわからないようにすること。

個性とは、選択して構築してきた情報の違い。

独創性とは、心揺さぶられたこと、欲求、興味で選んで記憶している情報素材を新鮮な気持ちになれる組み合わせで再構成されること。


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