【道は百も千も万もある】
アーティストは十人十色で、それぞれが違った生き方をしています。それだけ生き方にはたくさんの選択肢があるということです。
歴史に残る作家は特別な才能があったということより思いを伝えるモチベーションが極めて高かったといえます。画家になる前にゴッホは牧師でした。ゴーギャンは25歳頃までは株の仲買人、ルソーは税理士で、世に出ている作品は50歳過ぎに描いたものなのです。
『糸杉のある麦畑』1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
1897-1898年 ポール・ゴーギャン
『蛇使いの女』1907年 アンリ・ルソー
なぜ、印象派の画家たちが魅力的なのか、それは この時代、様々な想いで引き寄せられるようにパリに集まり、 誰の指示でもなく、頼まれたわけでもなく強い想いを絵を描くことで伝えるために自分のスタイルを追い求めていたからなのです。その想いが100年経っても描いた絵から今だに伝わってきます。
『印象・日の出』1872年 クロード・モネ
『睡蓮(Nymphéas) 』1916年 クロード・モネ
『オーケストラ席の音楽家たち』1870年 エドガー・ドガ
幕末志士の坂本龍馬が『人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。』と語っていたように誰でもそれぞれ自分らしいチカラを磨いていけばいいのです。
【自分の芸術を真に理解できるのは数学者だけ】
トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像(1513年 1515年頃)
「知りたがりの万能人レオナルド・ダ・ヴィンチ」 1452年4月15日~1519年5月2日。イタリア、トスカーナのヴィンチ村生まれ。レオナルド・ダ・ヴィンチという名は「ヴィンチ村生まれのレオナルド」という意味。画家としての側面は、その多様な才能の一部に過ぎず、芸術から科学に至る幅広い分野で業績を残したました。絵画作品は十数点といわれているが、多くの科学研究の手稿などを残しています。
「師匠を超えたダ・ヴィンチ」 1466年に、14歳だったダ・ヴィンチは、フィレンツェで最も優れた工房の1つを主宰していたアンドレア・デル・ヴェロッキオに弟子入りしました。芸術家列伝を著したジョルジョ・ヴァザーリによれば『キリストの洗礼』でヴェッロキオとダ・ヴィンチは共作し、ダ・ヴィンチはイエスの横に控える天使たちを担当したそうです。当時のダ・ヴィンチの技術は、ヴェロッキオが「二度と筆をとらない」というくらい高いものでした。
また、ダ・ヴィンチは20歳ほどで組合よりマスター(親方)の資格を与えられたことから、若くしてその才能は開花していたことがわかります。
『キリストの洗礼』
キリストの洗礼(部分)
弟子ダ・ヴィンチが描いた天使↑ ↑師匠ヴェロッキオが描いた天使
弟子のダ・ヴィンチに描かせた部分の絵を観て師匠ヴェロッキオは引退を決意しました。若きダ・ヴィンチの才能、美しい容姿などさまざまな意味でヴェロッキオは芸術家として第一線で弟子たちをけん引する自信と生命力の低下、老い、必ず訪れる新旧交代のタイミングを悟ったのかもしれません。
ダ・ヴィンチの師匠ヴェロッキオ
「ダ・ヴィンチが編み出したトリック効果『最後の晩餐』」 幅が9mもあるこの壁画作品は、イタリアのミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂壁面に描かれました。依頼を受けたダ・ヴィンチは、ただ題材を描くのではなく、絵の中にトリックを仕掛けています。
「一点透視図法」で描くことで、イエスと12人の使徒がまるで見る人と一緒に食事をしているかのように描いたのです。
一点透視図法は、消失点を1つ決めて、そこから放射線状に広げて空間を描く技法です。ではその消失点は絵のどこに設定されているのでしょうか。
『最後の晩餐』1495-97年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
答えはイエスの右のこめかみです。
ダ・ヴィンチはイエスの右のこめかみに釘くぎを打ち、そこから糸を張ってテーブル、天井、床などを描きました。こめかみを消失点としたもう1つの理由に、イエスの顔のうしろの窓があります。窓の光が、放射線状にのびる天井や壁面の線の効果で、聖人の頭に描かれる光輪を感じさせることに成功しているのです。
※透視図法の効果で、イエスと12使徒が、修道院で食事をとる人々と同じ空間にいるよう
に感じられる。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 食堂
「消失点が見つかるまでの絵画」 絵という平面的な世界の中で、現実と同じような立体感を表現するには透視図法が必要です。では透視図法が完成していない(消失点が発見されていない)絵を観てみましょう。
アンブロージョロレンツェッティ『善政の効果1336年』
アンブロージョロレンツェッティ 善政の効果 ライン入り
フラ アンジェリコ作 聖ニコラウスの生涯1437年制作
フラ アンジェリコ作 聖ニコラウスの生涯1437年制作 ライン入り
下に挙げた絵も一点透視図法が編み出されていないルネサンス初期に描かれた祭壇画です。消失点が設定された絵「最後の晩餐」などと見比べると、空間に違和感を感じます。
『聖三位一体、聖母、聖ヨハネ寄進者たち』1425-8年頃 マザッチョ
•描く人物の仕草(動き)の表現で”魂の働き“を伝える。
•遠近法の(壁に穴があいたような)フレームの中に人物を置くことで、彫刻のような
立体感を高める。
•これらの効果を利用して、主題【感情(愛情、罪、罰、苦悩など)・美徳・悪徳】の意味
をいっそう強く見る人の心に伝えようとした。
ダ・ヴィンチは当時の最先端科学であった消失点を研究した1 人であり、積極的にその技術を絵画に落とし込んだ画家なのです。
『受胎告知』、1475年 - 1485年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
「モナ・リザは微笑んでいなかった!?」 ”モナ・リザの微笑み”といえば誰だれもがイメージできるくらい有名な表情ですが、本当に微笑んでいるのかは研究者の間でも長年議論が続けられています。
一見すると微笑んで見えるのですが、スフマート技法による頬や口角の微妙な凹凸の表現によって「笑ってないのに微笑んでいるように見せている」という説があります。
ためしにモナ・リザの口の部分を隠して見てみてください。また、左右の目をそれぞれ隠したり、顔の半分を隠すとどうでしょうか。
見える顔のパーツによって、モナ・リザの表情も変って見えるのではないでしょうか。
『モナ・リザ』1503年 - 1505 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
飽きっぽいダ・ヴィンチが、この絵だけは生涯に渡り手元に置き、加筆をし続けた未完の作品といわれる『モナ・リザ(寸法: 77 cm x 53 cm)』。見る者にとっても常に新しい作品に見えるのはそのせいかもしれません。
ルーヴル美術館 (1797年から)
「アートはサイエンスであると考えた画家」 「自分の芸術を真に理解できるのは数学者だけである」とダ・ヴィンチ自身が言葉を残したように絵画、彫刻、建築、土木、人体、科学技術などに通じ、多岐にわたる分野で足跡を残しています。
レオナルドがチェーザレ・ボルジアの命令で制作した、非常に精密なイーモラの地図
そんな彼の研究の1つに人体解剖があります。ダ・ヴィンチは、絵の対象となる生物の構造をしっかり理解することによって真実の美しさに近づけて描けると考えていました。実際に動物を解剖し、後に人体解剖に立ち会った彼は、自らも人体を解剖して得た知識で美術解剖学を始めたのです。「人をさまざまなポーズで描くためには、姿勢や運動をするために骨や筋肉がどのような動きをしているかの理解とつくりの知識が豊かであることが大切である。」と語り、極めて精密に描き記録した解剖図などを、芸術的な図とともに1万3000ページにおよぶノートに描いています。
『子宮内の胎児が描かれた手稿』 1510年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ
『ウィトルウィウス的人体図』、1485年頃 ダ・ヴィンチ
彼にとって、生物の構造や水の流れなど自然の摂理、つまり「サイエンス」を理解することは、芸術を探求し美を創作していくことと同じだったのかもしれません。
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』 1499年 - 1500年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ
『ほつれ髪の女性』 1508年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ パルマ国立美術館
【引きこもりの完璧主義者ミケランジェロ・ブオナローティ】
1475年3月6日~1564年2月18日。ルネサンスを代表するイタリアの芸術家、彫刻家、ほかにもさまざまな分野で活躍しました。メディチ家のプラトン研究会に参加し、古代ギリシアの彫刻を研究しました。
システィーナ礼拝堂の天井画は、4年かけて1人で制作したといわれるほど、今でいう「引きこもり」がちで、一切の妥協を許さない完璧主義者だったようです。
システィーナ礼拝堂
「ミケランジェロの性格を表すエピソード」
•かっとなりやすい性格のため若い頃はけんかも多く、あるとき顔を殴られて鼻が曲がっ
てしまった。このためもあって容姿にコンプレックスを持ち、自画像を残さず、さらに
気難しい性格になってしまった。
•仕事に取り掛かるのは遅いが、いざ始めると周囲が驚くほどの速度で仕上げたといわれ
る。
•彫刻の題材をどうやって決めるかをたずねられた際、「考えたこともない。素材が命じ
るままに彫るだけだ」と答えた。
「物表現 マッチョな肉体と人物の大小」
ミケランジェロがヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に描いた壁画です。古代エジプト人が描いた『死者の書』の影響を受けたかのような生死観が表現されています。
『最後の審判』 ミケランジェロ システィーナ礼拝堂
大小数百人ほどの人物が描かれていますが、身分の高いものほど大きく描くといった古代エジプト絵画へのオマージュなのか、中央のイエス・キリストが最も大きく描かれています。
①キリストと聖母マリア
②マリアの右側が聖アンデレ、その右側が洗礼者ヨハネ、マリアの足元に聖ロレンツォ キリストから見て右が正義で左が悪とし、左下の地獄の表現は詩人ダンテの『神曲』地獄篇のイメージで描かれました。また聖人はとても肉感的に描かれました。 「神は神に似せて人を作った」という聖書の解釈で、理想の肉体を描いたためですが、批判した儀典長は作者によって地獄に描かれています。
ローマ法王庁の儀典長ビアージオ
制作初期の段階でユリウス教皇に「完成はいつ頃になるのだ」と聞かれたところ、連日の制作に疲れていたミケランジェロは苛立ち、「私が『出来た』と言った時です」と返答した。これに対し、気の荒いことで知られた教皇は「早く完成させないと足場から突き落とすぞ」と言い返したそうです。
「頭部を未完成のまま残した彫像」
ミケランジェロがこのブルータス像を作ったのは1539年頃で、60歳の頃の作品とされています。
『古代ローマで圧制者(シーザー)暗殺を成し遂げたブルータスの彫刻』
実際にミケランジェロが作ったのは頭部のみで、衣服のほとんどは弟子のカルカーニという人物がつくりました。きっちりとローマ風に作りこまれた衣服の部分とは対照的に、頭部の髪は未完成のままです。あまりに多忙だったミケランジェロは途中で投げ出してしまったようです。カルカーニが師匠の作った頭部に手を加えなかったのは非常に賢明な行動でした。おかげでミケランジェロのタッチがそのまま残され、私たち現代人も観ることができるのです。
”私たち皆にとって最大の危機は、高きを目指し失敗することではなく低きを目指して達成することである。やる価値のあることは何であれ、初めは下手でも、やる価値がある。
”些細なことから、完璧が産まれる。しかし、完璧は些細なことではない。余分な贅肉が
削ぎ落とされて、彫像は成長する。神よ、どうか、私を、お許しください。いつも、創造
を越えて、想像することを”
ミケランジェロ・ブオナローティ
「ミケランジェロが制作した 見上げさせるための彫刻ダヴィデ像」
見上げる位置にセッティングすることを考え、胴体に対して顔を大きく首を長く制作し下から見た時にプロポーションが自然にみえるように造られています。
『ダヴィデ像』1501–1504年 ミケランジェロ・ブオナローティ
8 頭身で作られている『ミロのヴィーナス』などに比べ、『ダヴィデ像』は顔が大きく作られています。見上げる位置にセッティングすることを考え、胴体に対して顔を大きく首を長く制作し下から見た時にプロポーションが自然にみえるように造られています。遠近法は絵画だけの技法ではないのです。
【ジャーナリストのような画家】
情熱的なインテリ画家 ウジェーヌ・ドラクロワ 1798年4月26日~1863年8月13日。フランスのロマン主義を代表する画家。表現豊かな筆づかい、そして効果的な光の描写によるドラマティックな演出が特徴。新古典主義のように見たままをとらえるのではなく、感じたままを表現した作品は、印象派や後世の画家たちに影響を与えました。
実はタレーラン(フランスの外交官・政治家。のちに首相)の息子だという彼は、画家になってから政府の注文が途絶えることなく、フランス外交の記録画や、建築物の装飾も手がけました。
ウジェーヌ・ドラクロワ
産業革命により、人が機械や時間、規則に管理される工業社会が生まれたフランスでは、古代の様式を美徳とした新古典主義ではなく、民衆の自我や個性の自由な表現をテーマとしたロマン主義が支持されました。
ドラクロワは、『民衆を導く自由の女神』や『キオス島の虐殺』のように実際に起こった事件を民衆に訴えかけるように描くことで、ジャーナリストのような役割を果たしたと言えるでしょう。一方でハムレットを題材に描いたり、肖像画や動物画を描いたりと、幅広いジャンルの作品を残しています。
『民衆を導く自由の女神』1830年 ウジェーヌ・ドラクロワ
『キオス島の虐殺』1823-24年 ウジェーヌ・ドラクロワ
「古典主義・アングル VS ロマン主義・ドラクロワ」
ロマン主義絵画の巨匠ドラクロワは、新古典主義を牽引するアングルと、サロンにおいて絵画の表現を巡り大きく対立します。当時のサロンでは、新古典主義こそが理想的な絵画とされていたのです。しかし、アングルは『グランド・オダリスク』のように新古典主義に縛られない絵画を描いており、ドラクロワも絵画の王道ともいえる歴史画をテーマとした絵を描いています。対立はお互いの主張や立場への理解があったからこそともいえます。どちらの表現も写真では実現できないものであり、現代においてもその魅力は決して色褪せていません。
◎新古典主義の画家ドミニク・アングル
「古代ローマ・古代ギリシア美術の写実性が大切」 「線と形を大切にし調和のとれた構図を重視する」 「デッサンこそ芸術において大切だ」
『泉』 1820年-1856年ドミニク・アングル
※線の強調 デッサンに基づいた「理性的かつ正確さに基づき、かたちを強調する線」を象徴する
作品の1つ
◎ロマン主義の画家ドラクロワ 「躍動感・情熱を絵画に込めるために色彩や動きを重視する」 「古典にとらわれず時事的なテーマで描くことが大切だ」
『サルダナパールの死』 1827年 ウジェーヌ・ドラクロワ
※鮮やかな色彩の強調 この時代のモノクロ写真では伝えられない、「色彩の鮮やかさによる感情の強調」を
象徴する作品の1つ
「サイエンスに刺激されるアート」
1800年代はカメラと写真技術が著しい発展を遂げた時代で、それまで依頼のあった風景画や肖像画といった画家の仕事が減り始めました。
伝統的な写実表現を継承してきた新古典主義の画家アングルは、そのような社会において多くの弟子たちの将来を憂いていました。そして絵画にできることは何かを考えます。
しかしそんなアングルの心配をよそに、同時代に台頭していたロマン主義の画家ドラクロワの描く絵画のように、写真では表現できない歴史や現実の出来事を題材とした絵画が評価されるようになりました。また、写真技術の発展に促されるように、現実を写し取るだけの写真にはけっしてできない色彩表現や、好きなように誇張して描ける絵画ならではの技法が発展します。
後世では、画家エドガー・ドガも、アングルを尊敬し写実主義を主張しながらも、写真の構図を取り入れた絵画表現や新しい題材を探求していきます。その後も写真技術や映写機などといったサイエンスの進歩に刺激された画家たちによって、新しいアートは花開いていったのです。
【サイエンスの発展に画家ドミニ脅威を感じた・アングル】
1780年8月29日~1867年1月14日。フランスの画家。同じ時代に流行したドラクロワなどに代表されるロマン主義絵画に対抗し、古代ギリシアや古代ローマなど、古典美術を理想とする新古典主義を追求しました。
ドミニク・アングル
『グランド・オダリスク』に見える歪ゆがんだ空間表現は、ピカソやマティスなどの描く現代美術に大きな影響を与えました。
「絵でしか描けないプロポーション」
横たわる全裸の美女という構図は、伝統的に画家に好まれ描かれているポーズですが、写真では表現できないインパクトを出すために、極端に大きく捻ねじ曲げたうなじと背中を描きました。
解剖学に精通していたアングルだからこそ、伝統的なテーマである裸婦の理想的な美しさのバランスを壊さずに描いているのです。
『グランド・オダリスク』 1814年 ドミニク・アングル
当時は古典の美を継承する「新古典主義」というスタイルが主流でした。アングル自身も新古典主義の画家ですが、その中にあってアングルにしかできない絵画表現と、写真とは異なる写実絵画を追求したのです。この絵は批評家や美術愛好家たちには理解されず、大きな批判を浴びましたが、アングルは時代に挑戦しつづけました。
【母国の生活習慣を愛おしんだ画家】
19世紀フランスのバルビゾン派画家カミーユ・コローは、 あえて民族衣装をまとわせ人物画を描きました。 風景画を描くときも民族衣装を着た人物を画面に入れ、時代劇の一場面のような絵を描いたのです。
母国の文化を大切に思い、現代人が自分たちの善きルーツを忘れないように絵に描き残しました。
『モルトフォンテーヌの思い出』 1864年 カミーユ・コロー
『真珠の女』1870年 カミーユ・コロー
【非文明にあこがれた転職画家】
ゴーギャンは20代半ばまで、船乗りや株の仲買人など実業家として充分な財をなしていました。そんなゴーギャンが絵を描くようになったのは、印象派など近代絵画を見たことがきっかけです。
『自画像』 1889–1890年 ポール・ゴーギャン 妻の実家デンマークへの渡航、仕事でパナマに渡るなど移動の多い生活の中、滞在したブルターニュで画家のコミュニティに参加し、絵画を巡り議論を交わします。
画家としての評価を得だし、仕事を捨て画業に専念し始めたのは35歳の頃です。
『ひまわりを描くファン・ゴッホ』 1888年 ポール・ゴーガン
妻と子供5 人を抱え、経済的に困窮していきますが、幼少時に過ごした祖父の故郷ペルーの生活や、パリ万博で先史時代の石器や装飾品を見たことが発端となり、西洋文明と対極の非文明へ興味をもち始め、家族を置いて単身で南国タヒチへ渡ります。
この頃、ゴーギャンだけではなくアカデミーの芸術家たちも「未開人」の美術、アフリカの彫刻などに熱狂し、骨董屋で二束三文で買ったアフリカの部族の仮面などをアトリエに飾って、制作のお手本にしていました。
『ダン族の仮面 』 1910-20年頃 西アフリカ
この頃、ゴーギャンだけではなくアカデミーの芸術家たちも「未開人」の美術、アフリカの彫刻などに熱狂し、骨董屋で二束三文で買ったアフリカの部族の仮面などをアトリエに飾って、制作のお手本にしていました。
『イア・オラナ・マリア(我マリアを拝する)』1891年 ポール・ゴーギャン
行動力と情熱のあるゴーギャンは「未開人の美術」をお手本にするだけではなく、生活習慣の原点に立ち返るために未開の地にどっぷりと浸かることで、文明が染みついた自分にはない力強さを吸収し、絵を描こうとしたのではないでしょうか。
『テ・レリオア(白昼夢)』1897年 ポール・ゴーガン
ゴーギャンの絵は、分割された面ごとに使われる鮮やかな色が特徴的で、同時代の画家と同じように浮世絵の影響が見られます。しかしそれらは理さいはい屈ではなく、本能的な采配によってコントロールされているような素朴な魅力があります。
『タヒチの女(浜辺にて)』1891年 ポール・ゴーギャン
黒髪に茶褐色の肌をした南の島の女性たちが描かれています。この絵は、近代的な文明に染まっていない生活や文化を求め、はじめて南国タヒチに渡ったときに描いた絵です。
生命力を感じさせる女性の体格、大きめで立派な鼻、腕と手指は太く力強くむき出し、大地を逆に支えているようにも見えてきます。女性の衣服の鮮やかな赤やピンク、背景の砂浜の黄色、海の緑、黒髪に映える黄色の髪飾りはひときわ鮮やかに強調されており、画面は繊細さとは対極の力強さで満ちています。
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
1897-1898年
【画家に転職した牧師】
牧師であるフィンセント・ファン・ゴッホは、貧困などの悩みをもつ庶民のために働くことが生きがいでした。しかし情に流されやすいゴッホは、教会に配給された物資や支援金を困窮している人たちをみると衝動的に分け与えてしまうなど、献身の想いや情熱だけでは人々を救えないばかりか、組織の一員としてもなじめずに画家に転身します。
『自画像』1887年春 フィンセント・ファン・ゴッホ
その後、周囲と衝突しながら転々とし、やがて弟テオを頼ってパリのモンマルトルに行ったゴッホは、ゴーギャンたち印象派の画家と出会い、日差しが豊かで開放的な南フランスのアルルで、溢れでる生命力の象徴といえるモチーフ『ひまわり』をみつけ、何枚も描きます。輝くような生命力を表現するために彼は、どんなに貧しくても高級な絵具にこだわって、発色の良い色使いで絵を描いていました。
『ひまわり』1888年8月 フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホがアルルに来て数か月後に同じ転職画家であるゴーギャンと共同生活を始めますが、個性の強い2人は衝突。その結果、ゴッホが自分の耳を切り落とすなどの奇行に走り、ゴーギャンはパリに戻ってしまいます。
『包帯をしてパイプをくわえた自画像』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
『アルルの寝室』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
錯乱状態になったゴッホは、アルルにある精神病院に自ら入院します。それでも精神が安定していたときには、何かにとり憑かれたように絵筆をふるいました。
「見えないものを描いた意味」 きらめく星に生命が宿っているかのように自分の思うまま絵筆を動かし、絵の具をうずまき状に厚く重ねて描くことで画面に力強いリズムが生み出されています。それまでゴッホが描き続けていた生命力がここにも表現されてるようです。 過ごした精神病院から見える風景を描いた傑作。病院からは実際には見えない教会や墓を表す糸杉が、画面に描き入れられています。死を暗示する糸杉を美しいと感じていた、当時のゴッホの精神状態と人生観が込められた絵です。
『糸杉のある麦畑』1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
『星月夜』1889年6月 フィンセント・ファン・ゴッホ
そんな傑作も彼を支え続けていた弟テオ以外は、誰も彼の表現を理解できなかったのです。そんな弟テオの生まれたばかりの息子のために厳しい冬を耐えて春を待つかわいい希望の花を描きました。
『花咲くアーモンドの枝』 1890年2月 フィンセント・ファン・ゴッホ
彼の献身的に芸術に取り組み続けた人生と合わせて、情熱と強い生命力がそのまま表現された絵は、いまも見るものの心を打ち続けています。
フィンセント と テオの墓、オーヴェルス・シュール・オワーズ
【マイノリティを描いたブルジョワ画家】
フランスの画家。本名アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ 1864年11月24日~1901年9月9日。
当時低く見られていたポスターを芸術的な域に高めたことで有名だが、印象派の画家として多くの肖像画などを残しています。彼の死後、フランス南部のアルビにトゥールーズ=ロートレック美術館が建てられました。
ロートレックのアートに対する情熱、あるいは執着は、自らが抱える身体的なコンプレックスに後押しされました。
ロートレックは13~14歳のときに左右の足を相次いで骨折し、以来足の成長が止まってしまいます。いとこ同士だった両親の近親婚による遺伝的な疾患によるものだといわれていますが、同年代の若者と同じような活動ができない彼は、絵画に没頭するしかありませんでした。
トゥールーズ=ロートレック
やがてパリの画塾で勉強することになったロートレックは、モンマルトルに集う芸術家たちと出会います。しかし身長が低い彼は笑い者になり、酒や娼婦におぼれていきます。こうして彼はモンマルトルの丘の下で下級社会の人々の中に混じって、マイノリティである娼婦や踊り子たちを題材に絵を描いていったのです。
『フェルナンド・サーカスにて』1888年 トゥールーズ=ロートレック
『ムーラン・ルージュにて』 1892年 トゥールーズ=ロートレック
『ムーラン・ルージュに入るラ・グリュ』1892年 トゥールーズ=ロートレック
そんなロートレックのもとに、彼が通い詰めていたダンスホール「ムーラン・ルージュ」のポスター制作の依頼が舞い込みます。まわりの画家たちはその仕事を見下しましたが、彼は踊り子たちの名前を添えて、芸術的なポスターとして仕上げたのです。
ポスター『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』1891年 トゥールーズ=ロートレック
『キャバレー・アンバサドゥールのアリスティード・ブリュアン』1892年
ポスター『ディヴァン・ジャポネ』1892年 トゥールーズ=ロートレック
【造られる個性】
出会った女性たちや周りの友人、ライバルたちによって”近代アートの巨匠ピカソの才能”も”独創的な作品”も造られていったといえる。
パブロ・ピカソ
【死 亡】 1973年4月8日(フランス ムージャン)
『アビニヨンの娘たち』 1907年-1908年
正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に 2回 結婚 し、3人 の女性との間に 4人 の 子供 をもうけた。
「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」
「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ。」
= 多重視点構造 ⇔単視点構造(ルネサンス以降の絵画)
ルネサンスから引き継がれていた遠近法を否定した。
『泣く女』 1937年
■『青の時代』のピカソ(1901~1904年) 1901年、友人の一人がこの世を去ってしまいます。とてもショックを受けたピカソは、貧困や孤独、絶望をテーマにした冷たい青色を多くつかった。
「盲人の食事」
『人生 La Vie』 1903年
■『ばら色の時代』のピカソ(1904~1907年) 暗い『青の時代』から急に明るい色調の絵画を描きだしたきっかけは、恋愛でした。
ピカソは1904年に オリビア という女性と出会い、付き合い始めます。サーカスや旅芸人を題材にした明るく、にぎやかな絵画を描いています。
この頃に描いた絵はよく売れ、ピカソ(23歳)は 有名な画家 になっていきました。
『サルタンバンクの家族』
『パイプを持つ少年』 1904年-1907年
1907年、新しい恋人 エヴァ(本名はアンベール)。キュビズムの絵画に変化していった(ピカソ26歳)。
■キュビズムの時代(1907~1916年) ピカソの絵画と聞いて思い浮かべるのは、このキュビズムの時代の絵画でしょう。1915年には恋人のエヴァが病気でこの世を去ってしまい、ピカソは一人になってしまいます。
『ヴァイオリンと葡萄』 1912年
■新古典主義の時代(1918~1925年) ピカソは、キュビズムの絵画をずっと描いていたわけではありません。
この時代はゆったりとした人物をイキイキと描いています。人物たちの形もまるくなっているのが特徴です。
『海辺を走る二人の女』 1922年
オルガ という女性と出会い、結婚します。1920年代の後半からは、オルガとの生活がうまくいかなくなります。ピカソ(39歳)はアトリエに閉じこもり、挿絵を多く描くようになりました。
■シュルレアリスムの時代(1925年~) この時代から晩年にかけてのピカソの作品はシュルレアリスムの手法だけではなく、様々な手法を取り入れています。
『三人のダンサー』 1925年
ピカソが46歳のとき、17歳のマリー=テレーズ・ワルテル という女性を出会い、付き合い始めます。
ピカソはオルガと離婚できずに長い別居生活が始まります。 マリーは1935年にマヤという女の子をうみます。ピカソはマヤがうまれた後に ドラ という女性と付き合いはじめます。
1936年からのスペインでの内乱をきっかけに、ピカソは1枚の絵を描きます。攻撃された町の名前を、そのままタイトルにした有名な『ゲルニカ』です。
戦争の悲しみ、憎しみ、悔しさ、苦しさ…が表現された『ゲルニカ』。
ドイツ兵から「この絵を描いたのはお前か。」と聞かれた近代美術の巨匠ピカソは
「この絵を描いたのは、あなたたちだ。」と答えました。
『ゲルニカ』 1937年
1943年、21歳の 女性画家フランソワーズ と付き合い、1945年にドラと別れました。フランソワーズと付き合っていたときのピカソ(62歳)は、絵画を制作しつつ、陶器もつくっていました。フランソワーズは1953年に子供をつれて出て行ってしまいます。
一時はショックを受けたピカソ(72歳)ですが、またすぐに別の女性 ジャクリーヌ と付き合いはじめ、2度目の結婚をします。
ピカソは一生の間に13,000点の絵画、100,000点の版画、34,000点の挿絵、そして300点もの彫刻を制作しています。一日あたり2~3枚以上のペースで絵画や版画を制作していた計算です。
『鳥』 1948年
ピカソの絵画で特に印象深いのが、キュビズムの時代です。そのため、ピカソの絵が難しすぎてよくわからないという人や下手な絵なのになぜか有名な画家、と思っている人も多いのは確かです。 ですがピカソの絵画の時代の移り変わりを見ていくと、ピカソはまさに天才だと実感できるはずです。ピカソの絵画は、全て考え抜かれて描かれているのです。ピカソはこんな言葉を残しています。
「なぜ自然を模倣しなければならないのか?それくらいなら完全な円を描こうとするほう
がましなくらいだ」
出会った女性たちや周りの友人、ライバルたちによって”天才ピカソの才能”も”独創的な作品”も造られていったといえる。
ピカソは、友人(画家)のアトリエに招待されなくなっていった。それはピカソがライバルたちの新作を一目みただけで”模倣”ではなく完全に自分の作品として創造する力を持っていたからだ。他者の新鮮な情報を一瞬で理解し、自分の持っている情報と再構築して個性にしていった。
「誰かの出した答えを目指す必要はない。 答えはいつも自分で創造していくもの」
ピカソの凄さを改めて感じている。作品性といったところよりも芸術活動の視点を変えたところに興味をそそられる。戦争の悲しみ、憎しみ、悔しさ、苦しさ…が表現された『ゲルニカ』 ドイツ兵から「この絵を描いたのはお前か。」と聞かれた近代美術の巨匠ピカソは 「この絵を描いたのは、あなたたちだ。」と答えた。
【美術教育を受けていない副業画家】
パリの税関の下級役人として働き、休日に絵を描いていた「日曜画家」ルソーは、ジャングルをテーマにした作品をいくつも描きました。
『熱帯嵐のなかのトラ』1891年 アンリ・ルソー
都会育ちの彼は、パリ万国博覧会で再現されていたフランスの植民地(セネガルやタヒチ)の、ジャングの風景に感動したようです。
その未知の世界観あこがに憧れを抱くようになった彼は、動物の写真集と近くの植物園で描いたスケッチ、そして実際に旅行してきた知人の体験談を聞いて、彼独特の画法と想像力でこの作品を描き切りました。そこには、本当に体感してきたような緻密さとリアルさがあります。
伝統的な遠近法や明暗法、色彩論、写実表現にとらわれない自由な画法。しかし、ルソーのように自己流で絵を描いていた人たちは「素朴派」と呼ばれ、独学で描いた絵は、ほかの画家たちに「へたくそ」とバカにされ、批評家たちの笑いものにされました。
『フットボールをする人々』1908年 アンリ・ルソー
アカデミックな美術教育を受けていないルソーにとっては「その描き方しか知らない」だけのことですが、そんなルソーを伝統的なアートセオリーを否定し、次々と新しい表現にチャレンジしていた前衛画家のパウロ・ピカソは、高く評価していました。 当時の芸術界では唯一無二の存在であったルソー作品は、評論家たちもどう評価してよいかわからなかったのに対して、「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」と語っていたピカソにとっては、ルソーの独創的な絵画表現に新しい価値を見出し、刺激を受けたのでしょう。 副業画家のデビューは遅く、彼の世界的に知られる名画はすべて50 歳を過ぎてから描いた作品です。
『私自身、肖像=風景』1890年 アンリ・ルソー
【癒しを与えた画家】
『私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい』画家 アンリ・マティス。身の丈を超す巨大な観葉植物が立ち並び、テーブルの上には多様な花でいっぱいの植物園のような 自分にとって心地よい空間、創作環境で数々の傑作を生みだしていました。
『食卓-赤の調和』 1908年 アンリ・マティス
『かたつむり』1952-53年 アンリ・マティス
人の生き方に正解や決まった道はなく、共感できることは 嬉しかったり、喜べたり、安心できたりすることで心揺さぶられることが大切だと考えています。ちょっとした”気づき”ひとつで、毎日 情動、感動が湧き起こります。
Comments