文田聖二 FUMITA SEIJI 作品集「平成美術家日記」
Ⅳ
≪ 日常空間の中に新しい視点を送り込んだデジタルグラフィックス作品 ≫
絵を描くように写真を撮り、写真を撮るように絵を描く。デジタルであることの自由がもたらした作画感覚で表現した作品群。
記憶と記録、写真の持つその二つの特性をデジタル技術によって新しい形で結び付ける。そうした方向を持ち、かつ記憶や想起の奇妙なメカニズムさえも一枚のイメージに封じ込めてしまった。「家族」や「食卓」や「個人」の曖昧で私的でデリケートな問題を包括的に記録しようと試んだ作品。
『 父 』
『 夫婦 』
『 焼きおにぎり 』
『 父の兄 』
幼い頃の父。 会ったことがない父の兄。 見知らぬ親戚。 自分の知らない家族の人生。 子、親、友だち、先輩、後輩…、誰しもいくつかの立場がある。
それぞれの人に歴史があり、さまざまな顔がある。生まれた時から大勢の人たちとつながっている。
人と接するときも物事に対峙するときもそれぞれの表層には見えない背景をよく観ることで、理解が深まっていく。
EPSON Color Imaging CONTEST 受賞作品展
親族のスナップ写真をデジタル画像処理した写真作品を発表。
審査員賞(伊藤俊治賞)受賞 2001年 10月
自分のルーツの断片しか知らない
『 家族 』
実家の仏間に祖父と祖母の写真がある。
アルバムでしか知らない親戚がたくさんいる。祖父は京都の呉服問屋をやっていたらしい。写真に写っている幼い子は父親。笑っている優しそうな兵隊さんは戦死した父親の兄。
自分のルーツの断片しか知らない。
『 父の職場 』
『 高校時代の母 』
平成日記
二十世紀末、バブルが弾け、「援助交際」という言葉の意味を誰もが知り、ブルセラショップが繁盛していた頃、私は女子高校の美術講師をしていた。ある生徒が美術室の清掃中に突然、「女子高生と話ができて、嬉しい?」、「先生は、幸せ?」と尋ねてきたことがある。また、授業中に「女子高生が大嫌い。女子高生相手に喜んでいる大人も気持ち悪い。」と発言した女子高生の意見も印象的だった。
大人として、男性として、教師として考えさせられる瞬間が不意に訪れる。語りかけてきた彼女達はいずれも、悪意も愛情も感じないその顔は無表情で真剣だった。私の高校時代とは幸福感が違ってみえる生徒に対して、そんな時に私は、適確な意見を述べているのかどうかいつも発言に気をつかっていた。しかし、返答する私をみる彼女達の無表情な顔を思い返してみると彼女達の心情として、その発言内容が重要なのではなかったのかもしれない。何か答えというよりは、大人である私が常に問題意識をもっているのか、自信をもって人生を歩んでいるのか、幸せなのかを確認したかったのか、あるいはそうあってほしいと願っていただけなのかも知れないと思えてくる。
子どもがいずれ自分も参加する社会とそこに生きる大人をみつめるのは自然なのことで、先人は後人に何かを教える前にその人自身の生き方を観られていることを自覚して自分を表現することがその責任を果たしているといえるのだろう。
子どもは、疑問をたくさんもっている、しかも日々どんどん増えていく。そんな時、子どもは大人を観る。それから友だちと自分を対比し、それでも答えがみつからなかった時に自己解決を試みる。その時、自分の限界を決めつけて引きこもらず、納得する自分独自の意見に辿り着くためには、他者(外界)とのコミュニケーションが大切となり、そのための自己表現が必要となってくる。自分らしい表現をみつけることは人生への自信や、充実に繋がっていく。
「昭和」が消え、「平成」が徐々に色付き、21世紀になった今日、確かなものが「老い」と「死」ぐらいになり、あらゆる分野で見直しが叫ばれている。そんな不信の続く日本社会の状況だからこそ、日々察知したことを自分のフィルターをとおして「表現する」ことが、この社会生活に対する漠然とした疑問や不安を解消し、自分の存在を確かなものとして維持し飛躍できる手段となる。
そして、そんな人々の表現する姿とその記録が後世に残る確かな現時代の痕跡となるだろう。
平成日記
家族と個人
自分を形成してきたものの記憶としての抒情や郷愁、哀愁から人としての生き方の原点をさぐる。家族で培った事が生き方のスタンダードとなる。
やり始めたこととやらなくなったこと、手に入れたものと失ったもの、楽なことと大切にしなくなったこと、それらの選択の一つ一つが自分の常識、社会認識の「スタンダード」を構築している。その形成の基準として「家族」があり、さらには家庭で行われているコミュニケーションがアイデンティティーを形成(認識)する要素の一つとして大きく影響していると感じている。
そんな「家族間系」は、様々な組織のあり方の原点である。その関係がおろそかにされ、薄れている。一番近い存在のことをあまり知らない。家族一人一人に、歴史がある。父は息子、息子は夫、夫は弟、弟は先生、というように一人の家族が幾つもの人格を備えて生活している。しかし現代日本の家族構成では、息子にとって父は、それ以外の何ものでもなく、誰かの友人であり、男であることに気がつくことがあまりにも少ない。そのことを自然に意識できたのは一人立ちしてからのことだ。同時に家族をもつ大切さ、喜びがやっとわかってきはじめたともいえます。家族の有難さに気がつくのは、いつも遅い。父は父らしく、母は母、妻は妻らしくと願うことがそれ以外の人格を否定し、無意識に自分の都合に縛り付けて心の安定を保っていたりする。そのために家族の一人がそれ以外の人格を覗かせた時、違和感を感じて受け入れずに否定的な態度をとってしまっていたことがあるような気がする。
今、そんな家族との関係の記憶を表現しようと思ったのも必然といえます。私が、教育現場に携わっていることから様々な家族の姿(関係)をみて、「現代の大人」と「現代の子ども」に不安を感じることが多々ありました。その不安の要因を和らげるために何かをしたいという衝動がこの制作の発端であり、以前から「コミュニケ−ション」を表現のテーマにしていたことやパソコンとデジタルカメラを扱えること、新たに家族が増えたこと、表現できる場があるということで作品の構想がとても自然に明快になっていきました。
『 食卓 』
献立
『 記憶と記録 妻の実家 』
≪ アート!新スタイル ~かごしまの作家、かかわりの世界観~ ≫
写真、映像、家具などを素材に家族をテーマとしたインスタレーション作品を発表。
協働出品作家 川口洋一郎/藤浩志/内倉ひとみ他。講演 南條史生。
基準形成
人は日々の生活の中で、様々な局面に対して最良だと判断した事、あるいは教育された事を’善’として成長している。それらの選択の一つ一つが自分の常識、社会認識の「スタンダード」として構築される。自己の拠り所となる「スタンダード」である。
その形成の基準として「家族」があり、更には家庭で行われているコミュニケーションが、アイデンティティを形成(認識)する要素の一つとして大きく影響していると考えている。人体の構造の中に”宇宙の神秘”が潜んでいる様に、一家族の中からも”社会の規範”がみえてくるのではないだろうか。
追記
輝く努力を続けてさえいれば、巡り巡って、過去に出会えて別れた愛しい家族や友、あるいは未来に出会えなかった大切な誰かが、涙して見上げた空の星になり、なんらなせなかったこんな小さな自分でも、元気のお役に立てるかもしれないと最後の夢みてます。がんばります。ありがとうございます
人と人の繋がりという社会がwebのように横に広がって、その真ん中に自分がいます。みんなその平面の中心の1匹の蜘蛛で、同時に誰かの蜘蛛の巣の端っこにある事を知ります。そして、今度は自分はどこから来て何処へ行くのかに疑問を持つ年頃になると、ルーツに目を向けます。すると、webは深さの次元への旅となり、認識は立体の宇宙の虜になり、自分がその中に宙ぶらりんの一点の小さな蜘蛛である事に気づきます。そこには解決のない、する必要もないよという、問いの答えが待っています。ただ、その答えを用意されてる方が、その果てしない中の一点である自分が輝ける星であれと励まして下さってます。その道しるべを立ててくださるのが、芸術…で、先生がその案内をして下さってる、そう、強く感じて、有り難く、一度だけコメントさせていただきました。有難うございます。お会い出来たこと感謝します