文化的な生き方は他人に左右されない
・放っておけば平凡で代わり映えもしない日々の繰り返しに埋没してしまう日常を
いかに生気に溢れて楽しみや生きがいを追求する能動的な人生に転機するか
・自分らしく幸せに生きること
・生活をアートとして捉え、他人に左右されない生き方を一つの美意識とする
・転じることが成長、明日がくる限り、常に新しい自分を建立していく
・自分なりに丁寧に生きる
「普通は」といった思い込み程、曖昧なものはない。普通と思い込んでいることが、他者にとっては普通じゃなかったりする。「普通」は流行の様にいつの間にかつくり上げられ、知らないうちに消えていく。
日々、暮らしていけることが、どれだけ幸せなことかを気づくために創造力がある。
創造性はアートの世界だけではなく、繰り返される実生活の中でこそ効用を発揮する。
アートに触れることで、日常を非日常に変えるのではなく、あまりにも日常的で当たり前のこととして見過ごしている”奇跡”に気づいたり、見直したりして、視座が変わり視野が広がって視点が多角化して、結果的に今までの日常が変わる。自分の視座・視野・視点が変わることで世界の見え方が変わる。

ターシャ・テューダー
芸術家たちは、いつの時代も新しい価値を探し求めて、未知の領域への挑戦を繰り返してきた。 だから、時代時代に必要とされるアートが社会変動と共に変貌し続けている。
"気づき"のつぶやき
『見えないものが見えるようになる』
若冲の「群鶏図」にみられるような驚異的な細密描写と
オディロン・ルドンの顕微鏡で覗き見るような絵の世界観には共通点がある。
いずれも表面的な写実描写に留まらず、
リアルな仮想世界にまで到達して描いている。

『群鶏図』 宝暦11年(1761年)-明和2年(1765年)頃 伊藤若冲

『花瓶の花』1912年-1914年 オディロン・ルドン
『デッサン力があるということは』
絵の上手い下手の違いではなく、情報を収集する力や伝達する能力、
ものごとの構造を見極められることや
構想している計画・企画を具体的に展開していく能力。頭の中のイメージ(ビジョン)を絵に描き出す感覚を磨くことが、
日常生活や一般的な仕事で見直されてきている。
『見ているようで観ていない』
よく観るということは意識して確認するということ、事実を確認して、思い込みではなく本当のことに気づいていくということ。よく観る人が増えればもっと安心できる優しい関係が広がっていく。

『キュクロプス』1914年 オディロン・ルドン
『レオナルド・ダ・ヴィンチは』
凡庸な人間は
「注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、味わうことなく食べ、
体を意識せずに動かし、香りに気づくことなく呼吸し、考えずに歩いている」
と嘆いていた。

トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像(1513年 1515年頃)
『小説や俳句なども含めて創作の習慣は』
ものごとを意識してみるようになるから現実が見えてきて、思い込みに惑わされなくなる。 実際には思い込みや分かっているつもり、伝えているつもりが多い。
絵を描くときも「見たつもり」では描けない。

『燕子花図屏風』1701-04年 尾形光琳
『心の思い込みは、気がつきにくい』
絵に描くと自分の思い込みと実際の違いがよく観えてくる。
自画像を描くと自身の見直しになって心の洗濯になる。

『パレットと絵筆をもつ自画像』 1662年 レンブラント・ファン・レイン
『人と同じ情景を見ていても』
人によって違う情報の捉え方で
違う感情、考え方が生まれる。
多角的な視点で情報を捉えなければ、真実は見えてこない。
情報の捉え方で判断が大きく大きく変わる。

『クリスティーナの世界』 1948年 アンドリュー・ワイエス
『日常に感動できる人は幸福』
「よく観る」習慣があって、身近な自然に触れているなど
日常的に五感を磨いている人は、些細なことにも気がつく。
感覚が敏感だとそれだけ感動する経験が多く、
日常生活の中で幸せを感じとれる感覚が身についている。

ターシャ・テューダー 庭にて
『私は何を知っているのか』
「私は何を知らないのか」
「私は何を知らなければならないのか」
思い込みに惑わされないようによく観ることからはじめる。
そして本当のことを理解する。

『紅白梅図屏風』 尾形光琳
『絵は思い込みを外し、よく観て理解するだけで描ける』
描けないと思い込んでいるのは的確な情報を捉えていないだけで、
才能やセンスがないわけでも下手なわけでもない。
絵を描くことへの苦手意識、思い込みを外すだけで一気に上達してしまう。

『静物』1879-82年 ポール・セザンヌ
『見慣れたことでも』
いつも新たな発見をしていく意識を持って、よく観る
といった経験を積めば、
漠然とした理想や専門的な知識の枠に縛られなくなる。
新鮮に感じる気づきは、脳の機能を開放させる。
だから賢者は、散歩や芸術を習慣にしてきた。

『月の水彩画』 ガリレオ・ガリレイ
『思い込みは、自分では気がつきにくい』
だから、分かっているつもり伝えているつもりが多い。
絵を描くときにモチーフを観たつもりでは描けないから
自分の思い込みに気がつく。
よく観て絵を描く習慣がつくと
思い込みに惑わされなくなっていく。
『大抵の悩みは、勝手な自分の思い込み』
周りも自分も絵を描くようによく観て見直すと
色んなことが観えてきて気づきがあり、気分が晴れてくる。
答えは決まっていない、創造すればいい。
『嫌いなことから人は学ぶ』
「嫌い」なことや「わからないこと」でストレスが溜まるのではなく
突き詰めると本当に知りたいことにたどり着く。
「好き」なことを好きであり続けるために「嫌い」を知る。
『いつも意識しておきたい言葉』
「やっかいなのは、何も知らないということではない。
実際は知らないのに。知っていると思い込んでいることだ」
by マーク・トウェイン

現実を直視しチャレンジし続けている人は
自分が気づいたこととまだ知らないということを実感している。
『勝手に入ってくる情報は』
偶然ではなくて意図的に探していたのかも。
個性は、情報の選択により造られていく。
無意識に目に留まり、勝手に耳に入ってくる情報の中にも
考え方や意識を変えてくれる人生の財産となる情報が埋もれている。
飛び込んできた情報も人も出会った因果をちゃんと考えてみる。
創造していくための重要なワード
社会や教育、企業に必要とされる創造性の本質として、スティーブ・ジョブズがピクサー映画の製作として掲げた理念である ”「ストーリー」「キャラクター」「世界観」の3つを主要な側面として考える” は、魅力的な社会や教育、企業を創造していくためにも重要なワードだと思う。

「思い込みをなくす」「気づき」「ストーリー性」「個人の感性」「関心をもつ」「世界観」「美意識」などといった創造性の本質を捉えた視点の導入が、息の長い考え方として社会や教育、企業に必要だと感じている。
芸術の本質は、人に開放感をあたえること。思い込みによる閉塞感が人を不安や不幸にしていく。だから清流のように新鮮な情報を伝え続ける絵や音楽、違う言語の文化交流が人には必要。
本当に欲しいものは、文化的なことで手に入れられる
文化は、贅沢とは違う。文化は人生に必要不可欠なもので、ビルに例えると窓や灯り、屋上のようなもの。生きていくために雨風をしのげる屋根や壁はあっても窓や灯り、屋上のないビルの中で生活していると人は閉塞感にさいなまれ、人生が貧しく荒んだものになってしまう。
歌舞伎や浮世絵などの伝統芸能、美術館だけではなく、祭、映画館、ライブハウス、コンサート会場、小劇場、漫画喫茶、ネットカフェ、ゲームセンター、絵画教室…なども日本の大切な文化を支えている必要不可欠な場所である。そんな文化が途絶えてしまわないように日本も文化、その担い手たちを守る姿勢が必要。そんな国の姿勢の違い、各国の社会や人の意識が、未曽有のできごとへの対処の仕方に露呈される。こんな時だからこそ、日本社会での文化活動の位置づけや日本人の文化への意識、認識を見直す機会になればいいと感じている。
日本では、自然の一部として一体感を感じることで情緒に感動し癒され、心で理解する情緒思考文化が栄えた。世界の中で、日本人は絵が上手い民族である。日本文学も俳句もビジュアル的な言語、 生け花も茶道もビジュアル的な文化、 日本の文化は映像文化、 日本人はビジュアル人間、 ビジュアルを巧みに操る民族、だから日本アニメや漫画は世界から支持されているのに大半の日本人が絵を描けないと思い込んでいる。
才能が埋もれている。世界の中でも日本人は絵が描ける環境にいることに気がついていない。日本人は日常的に良質なクオリティ画像に囲まれて育っている。そのDNAをもっと教育や仕事に活かすべきだと考えている。
絵を描いたり、ものを造ったりしているときの充実感は 子供の頃、時を忘れてずっと遊んでいた時間に似ている。絵を描くことで、思考(イメージ)と行動の繰り返しを楽しみやすくなり人を成長させ、充実させていく。楽しいから集中し、思考量が増えて具体的な行動に移れるのである。
歌舞伎もオペラも伝統文化は五感を使って伝承していくシステムの一つ。中世西洋の教会も布教のためのシステムとして捉えると天を見上げさせるための天井画やステンドグラスのように五感を使って教えを認識させるための伝達技術を駆使した建造物である。本当に欲しいものは、文化的なことで手に入れられるのである。
日本人らしさ
西洋は「絵で埋める」 細部まで描きこまれていたり、肖像画であっても背景が描かれたりしている。

『オフィーリア』 1851-52年 ジョン・エヴァレット・ミレー
※背景に描写される草花には象徴的な意味が込められている。 ヤナギは見捨てられた愛、
イラクサは苦悩、ヒナギクは無垢、パンジーは愛の虚しさ、首飾りのスミレは誠実・純
潔・夭折(ようせつ:若死に)、ケシの花は死を意味している。
西洋人は「余白があることを恐れる」が、日本は描くべきものだけを描きあとは余白にする。「日本人は満たされていることに恐れを抱く」。

『氷図屏風』 江戸時代 円山応挙
日本のいさぎよい絵は、漫画・日本アニメのルーツ。 シンプルなイラストは明快で分かりやすいが、簡単に描くということではなく無駄な線を省いているのだ。 的確に情報を伝えられる線をみつけ最小限の必要な線だけで 印象や特徴を明快に描いている。



『鳥獣戯画絵巻』
※平安時代後期から鎌倉時代までの80年間をかけて、無名の僧侶たちによって庶民の日
常生活が、擬人化された動物キャラクターで描かれた。
日本では脳を休める情緒思考文化が栄えた。平安時代の絵巻物や江戸期に見られるような日常の風情に感動して癒される浮世絵である。
日本人は、不快を快に転じることのできる文化を持っている。 西洋の画家たちを驚かせた浮世絵師 広重の雨の表現。 当時、線で雨を視覚化する発想はなかった。今、当たり前のものとしてみている、感じていることは先人が気づかせてくれた。

『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』 1857年 歌川広重
自分のスタイル、自分たち家族、夫婦のスタイルを造れば上等





『記憶の記録 数分間 子どもの時空』
独りではない
群集の中の孤立もまた、何かと関係して起こる現象である。
人間も物事も、存在を語るときに’他との関わり’を無視はできない。すべてのものが誕生してからすでに何かに関わっている(もともと繋がっている)。
混沌とした国、日本。文化や習慣、環境の違う他者との関係を保ちつつ、自分のアイデンティティを保ち続ける事、それから派生する問題は現代社会に於いて増々難解になり、混沌としてきている。
様々なコミュニケーション手段(インターネットでの交渉、メールでの意思疎通など)が成立し、その伝達範囲(デジタル開発など)も拡大し続ける現代において、国際交渉に始まり、あらゆる組織、各個人(家族)に至まで自分のアイデンティティを意識すること、更にはそうできる環境を考えていく必要性が高くなってきていると感じている。
自分に関わる「繋がり」の存在を、意識しなくなった時にとる行動を想像すると恐ろしくもあり、寂しくもある。逆に何かに繋がっていると意識することは、安心に希望に強さ、 優しさに繋がることもある。
この作品群は、その当たり前だが確かな繋がりを再確認し、また多数の他者と共通認識できるために具現化(画像として視覚化)することを目的とし制作されたものである。

『 令和円窓図 』

『 マンション住い 』

『 2LDK生活 』

『 画学生 』

『 画学生のアトリエ 』

『 書初め 』

『 open mind トンネル 』

『 記憶と記録 』

『 横浜,町2014 』

『 ハイブリット 記憶と記録 』
ただただ妻が造ってくれる料理が好きで美味しくて嬉しくて満足できて、毎回、試行錯誤している作品が食べてなくなっていくのがもったいなくて、3年間、家ご飯を記録していた。結果的に太ったけど後悔はない。

『 妻の料理 』
ほぼ光の中。犬や猫たちは、ココしかない!といった場所を見つけるのが上手いですよね。気がつくと最高の居場所に移動してはくつろいでいる。



『 居場所 』
幕末志士の坂本龍馬が『人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。』と語っていたように十人十色の自分らしさを見つけて、開放された気持ちになっていきたいものです。

幕末志士の坂本龍馬
芸術家は十人十色で、それぞれが違った生き方をしています。それだけ生き方にはたくさんの選択肢があるということです。
日本の文化を象徴する言葉
歌舞伎役者 坂東玉三郎氏の芸の目的は「お客様に生きていてよかったと思っていただくこと」。

五代目坂東玉三郎
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