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脳に効く芸術と科学

更新日:8月22日



芸術家であり自然科学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチは


 凡庸な人間は”注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、

味わうことなく食べ、体を意識せずに動き、香りに気づくことなく呼吸し、

考えずに歩いている”

と嘆き、あらゆる楽しみの根底には、感覚的知性を磨くといった真面目な目的があると提唱していました。


 芸術は、「知覚」を機能させて表現していく”業”ですが、その業が、芸術作品を創作する限られた目的のためだけではなく、一般的な仕事や暮らしの中でこそ、その効用を活かせていける。


『ほつれ髪の女性』 1508年頃  レオナルド・ダ・ヴィンチ


レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿



 芸術家は、知覚を見つめることで、感覚と脳の仕様で決められた「可知域(知ることができる範囲)の内側」で芸術表現の試行錯誤をしてきた。画家の作品をのぞくことは、すなわち知覚の仕組みをのぞくこととおなじといえる。



作家オスカー・ワイルドの言葉

“Before Turner there was no fog in London.”

「ターナー以前に、ロンドンに霧はなかった」


『雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道』 1844年  ターナー

 


哲学者エルンスト・カッシーラーの言葉

「ほかのシンボルの形式と同じように、芸術はただ既成の与えられた現実の再生ではない、

 芸術は物体、そして人間生活に関する客観的な見方を得られるひとつの方法なのだ、

 それは模倣ではなく、現実自体の発見である」


『巨人』 フランシスコ・デ・ゴヤ

 


『オフィーリア』 1851-52年 ジョン・エヴァレット・ミレー


『落穂拾い』1857年 ジャン=フランソワ・ミレー


『オルナンの埋葬』 1849年 ギュスターヴ・クールベ



 発見した現実自体を豊かなシンボルとして表現することで、現実をより豊かに洞察させてくれる、それが芸術本来の役割のひとつ。


『晩鐘』 ジャン=フランソワ・ミレー


『印象・日の出』1872年 クロード・モネ


『サン・ラザール駅』1877年 クロード・モネ


『タヒチの女(浜辺にて)』1891年 ポール・ゴーガン




芸術の目的は、時代・社会によって変わる


 Society(ソサエティ)5.0:日本(内閣府の政策)が提唱する未来社会のコンセプト



時代ごとの思考:芸術(表現の)目的


古代人の基準      :「効く」かどうか(霊験、ご利益があるかどうか)

古代エジプト人の基準 :「理解」している、「伝える」こと

古代ギリシャ人の基準 :美の定義 ”調和や美、魂の働き”

古代ローマ人の基準  :”調和や美”よりも”事実”を重んじた表現

中世の基準      :キリスト教を伝える厳格で単純明快な表現

            ※感情(愛情、罪、罰、苦悩など)を表現

ルネサンス期の基準  :人間復興、偉大なギリシャ・ローマ文化の復活、再生

バロック時代の基準  :宮廷画家“権力と交流” 

            ※劇的・情動的な効果によって権力を誇示する表現

近代以降       : アートの多様化

  


【SDGs(持続可能な開発目標)18番目の問題発見】


問題を発見できるようにする気づき”

芸術家は「リアリティ」を発見する天才

・芸術家は、知覚を見つめることで、感覚と脳の仕様で決められた「可知域の内側」で

 芸術表現の試行錯誤をしてきた。

・画家の作品をのぞくことは、すなわち知覚の仕組みをのぞくこととおなじといえる。

・芸術での議論や実践は、科学へのインスピレーションに富んでいる。

・知覚・認識や脳の仕組みを学ぶことで芸術作品について新たな見方をすることができる。




芸術家は「リアリティ」を発見する天才


 歴史をひもとくと、人が「問題を解決する」ときには必ずアートが生まれています。近代社会も同じです。

 産業革命によって工場が乱立した都市部では、労働者は過酷な環境での生活を強いられました。すると人々は自我や自由を求めて立ち上がり、ロマン主義絵画が庶民の間で広がります。


『民衆を導く自由の女神』 1830年 ウジェーヌ・ドラクロワ


『キオス島の虐殺』1823-24年 ウジェーヌ・ドラクロワ


『種まく人』1850年 ジャン=フランソワ・ミレー

 


   新古典主義の画家カミーユ・コロー(1796-1875)は、現代の舞台照明などの演出表現の原点となる新しい明暗法を開発して、より深い奥行ゆきのある風景画を描きました。また、叙情豊かな雰囲気きを伝える明暗表現を開発して、古き良き時代の日常的な西洋風景を叙情豊かに描き、現代社会にその魅力を伝えているのです。


『モルトフォンテーヌの思い出』 1864年 カミーユ・コロー



 ドガは観客としてバレエの舞台で舞う踊り子の姿を観るのではなく、舞台裏の「バレエ界の真実」を描こうとしました。

『ダンス教室(バレエ教室)』1873年-1875年エドガー・ドガ


 画面の中央で美しく優雅に舞う花形バレリーナに対し、そのまわりにいるライバルである踊り子たちの表情からは競争、嫉妬となどが感じられます。

 また踊り子たちを援助しているパトロンたちの姿もあり、さまざまな人間模様が垣間見られるのです。そんな練習中の舞台の袖から、ドガはドキュメンタリー映像のような視線で真実を描きました。


『アイロンをかける2人の女』 1884年 エドガー・ドガ


『浴盤』1886年 エドガー・ドガ


『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』1878年 

ピエール=オーギュスト・ルノワール


『ムーラン・ルージュにて』1892年 トゥールーズ=ロートレック


『叫び』1893年エドヴァルド・ムンク


『遊ぶ子ども』 1909年 オスカー・ココシュカ




【クリエイターの発想の源】


 子供の頃から神話の世界に関心があった画家オディロン・ルドンは、植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられ、その出会いが画風にも影響していきます。クリエイターの発想の源にジャンルの隔たりはありません。個性とは、環境と選択して収集してきた情報で構築されていくのです。


『眼=気球』 1878年 オディロン・ルドン


『「起源」 Ⅲ. 不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた』 1883年


『キュクロプス』1914年 オディロン・ルドン


『リスニングルーム』1952年 ルネ・マグリット


『相対性』 1953年 マウリッツ・エッシャー



 アートには「影響」という意味があります。そして問題を解決する手段を「サイエンス」といいます。


『ゲルニカ』1937年 パブロ・ピカソ


『記憶の固執』1931年 サルヴァドール・ダリ




絵画技法の発展


  画材とそれを使う技法は、かなり直接的に美術表現に影響を及ぼした。


『受胎告知』1475年 - 1485年 レオナルド・ダ・ヴィンチ



【画材と技法】


 モザイク:

  種々の色の鉱物などの細片をすきまなく敷き並べて、壁画や床を装飾する芸術の技法。

 ※モザイク 語源 Mousai(ミューズ) ラテン語(=ミューズ神/芸術的な)



ステンドグラス:

『ドゥオーモ大聖堂』 イタリア(ミラノ)


フレスコ:

  下地の漆喰(しっくい)が乾かないうちに、水だけで溶いた顔料で描く技法。

  ※ フレスコ fresco イタリア語(=新鮮な)


『キリストの哀悼』1305年 ジョット・ディ・ボンドーネ



テンペラ:

  乳化作用を持つ物質を固着材として利用する絵具、及び これによる絵画技法。

  ※テンペラ tempera イタリア語(=混ぜ合わせるという意味)


油絵:

 15世紀、ファン・エイク兄弟が油絵の技法を完成させた。

  ※油彩の最大の特徴は比較的乾燥が遅い為に修正がきくこと。修正がきくことから、

   カンヴァスや板に直接色彩で描くことが可能になった。

  ※フィレンツェのデッサンに彩色する技法に対し、ヴェネツィアで初めから色彩で

   描いていく技法が生み出された。


『アルノルフィニ夫妻の肖像』1434年 ヤン=ファン=アイク


 ◎作者が絵の真ん中に書き込んだ文字


   Johannes de eyckfuit hic 「ヤン=ファン=アイクここにありき」


 ※現代でいえば、人生の厳かな一瞬、婚約式の承認として、署名入りの写真に法的な効力

  があるようなもの。


『アルノルフィニ夫妻の肖像』部分



【写実絵画の発展】


 ルネサンス期(15-16世紀)の解剖学や絵画技法(遠近法・明暗法 etc.)、

 画材(油彩)の発展により、精度の高い写実表現が可能になりデッサンの芸術性が

 高まっていった。


デッサン [dessin:仏] とは:

 物体の形、明暗などを平面に描画する美術の制作技法、過程、あるいは作品のこと。

 ※ドローイング[drawing:英語]は線描画の作品も示す。

 •語源【ラテン語 designare [デジナーレ]】は「デザイン」と同じで

  ” 計画を記号に表す、図案、設計図”といった意味をもつ。


『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』1499年 - 1500年ごろレオナルド・ダ・ヴィンチ


「ヤギのクロッキー」ヘンリー・ムーワ


クロッキー[croquis:仏]:

 ・人物や動物など”動き”のあるものをごく簡単に描いた絵


エスキース[esquisse:仏]:スケッチ[sketch:英]

 ・構想している計画や企画を具体的に展開していく絵

 ・眼に写ったかたちや頭の中のアイデアをごく簡単に記録する絵


エチュード[étude:仏] :習作

 ・ものごとの構造や状況・状態を見極められる絵



【遠近法(透視図法):消失点の発見を実証した絵】


『最後の晩餐』1495-97年 レオナルド・ダ・ヴィンチ

『最後の晩餐』展示 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会



【美術解剖学】


『ウィトルウィウス的人体図』 1485年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ



【バロック時代に発展した明暗法(キアロスクーロ)】


   王家の権威を知らしめるため大きなキャンバスに描かれたバロック絵画は、現代の宣伝 

 ポスターや広告看板のようなものでした。バロック時代のスター画家カラヴァッジョ

 (1571-1610)の、光と陰をまるで舞台照明のように演出して描かれた絵画は、当時の

 最先端技術だった絵画技法(遠近法・明暗法)と画材が駆使された視覚効果だったのです。


『トランプ詐欺師』1594年頃 カラヴァッジョ



 朝の陽ざしと夕暮れどきの光は、ただ明るい暗いというだけではなく雰囲気が違います。絵画技法の明暗(光と陰)法は、人物の立体感や背景の奥行きを描けるだけではなく、その人物の心情やその場所の雰囲気を伝えられる表現方法です。

 西洋では、絵にリアリティーとインパクトを持たせるために明暗法や遠近法などの写実的な絵画技法が研究されました。古典絵画の時代にも現代の映画やテレビ、スマホ画像の高画質化と同じように技法や画材の開発、技術の発展が求められていました。


『牛乳を注ぐ女』1658年 フェルメール




【印象派の画家たちの用いた”筆触分割”】


 •太陽の光を構成するプリズムの7色を基本とし、しかもそれらをおたがいに混ぜないで

  使用するという技法。

 •絵の具の色というのは、混ぜれば混ぜるほど黒に近くなり、明るさが失われていくが、

  戸外で描き、自然の光を忠実に捉えたかった印象派の画家たちは、混ぜると暗くなる

  絵の具を「混ぜない」ことで明るさを表現しようと考えた。


『グランド・ジャット島の日曜日の午後』1884-86年 ジョルジュ・スーラ


『オランピア』1863年 エドゥアール・マネ


『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』1890年 クロード・モネ


『イア・オラナ・マリア(我マリアを拝する)』1891年 ポール・ゴーギャン


『アルルの寝室』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ


 

 芸術と科学は、知覚を探求しようとし、精神のはたらきに関わろうと試みている点では、おなじ目的を共有しているといえる。それゆえ、芸術でおこなわれてきた議論や実践は、科学へのインスピレーションに富んでいるので科学的実験のヒントとなる。


 たとえば「色は形にどのような影響を与えるのか」というセザンヌの絵画的探求は、

「色や形態という別々の視覚の構成要素がどのように結合され、認識されるのか」

という神経生物学や実験心理学の研究とつながる。


『リンゴとオレンジのある静物』1895-1900年 ポール・セザンヌ



 芸術と科学は、知覚を探求しようとし、精神のはたらきに関わろうと試みている点では、

おなじ目的を共有しているといえる。それゆえ、芸術でおこなわれてきた議論や実践は、科学的実験のヒントとなる。


 たとえば「色は形にどのような影響を与えるのか」というセザンヌの絵画的探求は、

「色や形態という別々の視覚の構成要素がどのように結合され、認識されるのか」

という神経生物学や実験心理学の研究とつながる。


『サント・ヴィクトワール山』1904年 ポール・セザンヌ




【西洋絵画に現れた日本文化】


『モナ・リザ』1503 - 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ



 18世紀の西洋絵画も描き方や色づかい、描く題材までもセオリーに縛られていました。

そんな中、陶器などの日本文化が、西洋とはまったく違う新鮮なアートとして注目されていました。その陶器を梱包していた紙が「浮世絵 (版画)」だったのです。


『ビードロを吹く女』1790-91年 喜多川歌麿



 その頃の日本は、江戸時代。浮世絵は大衆文化で芸術的価値は高くありませんでした。

しかし、西洋では浮世絵に描かれている日常の風情、艶あでやかな着物、鮮やかな色づかい、自由な表現すべてに衝撃を受けたのです。


 こうしてパリを中心にヨーロッパに広まったジャポニズムはゴッホなど印象派の画家たちに多大な影響を与えていきます。

 浮世絵がなかったら、自由な色彩で開放的な表現をした印象派は生まれなかったかもしれません。



◎浮世絵

歌川広重 『名所江戸百景 亀戸梅屋敷 のぞき見る』1857年



◎ジャポニズム

フィンセント・ファン・ゴッホ 『ジャポネズリー:梅の開花(広重を模して)』1857年



 上が浮世絵で、下がそれに影響されたゴッホの作品。

画面の下半分を邪魔するかのように目の前に梅の枝があるにも関わらず、圧迫感はない。むしろ奥の梅木や梅を楽しむ人々に目が行くため、梅屋敷の広さを感じます。


 こういった西洋美術とはまったく異なる構図の描き方、そして景色の正確さや写実性よりも「どう描くか」を追求した浮世絵は印象派の画家たちに大きなインパクトを与えました。




【ルネサンスと油絵と日本人の少年】


 漆喰が乾く前に描かなければならないフレスコ画は、時間との戦いでした。しかし油絵の具は、油で溶かしながら使うので、絵の具をキャンバスの上で混ぜ合わせたり、重ねて塗ったりと、時間をかけて絵を描くことができます。

 油絵の具の特性を活かして、厚く塗り重ねたり、光沢をつくり出したり、繊細かつ大胆な表現が可能となったのです。

 描く場所が広がったことも重要なポイントです。モザイク技法やフレスコ技法だと、壁面にしか描けないという大きな制約がありました。油絵の具であれば、木のパネルや布のキャンバスでも描けるため作業場所の自由度が高まったのです。


 油絵の具をつかった油彩技法は、ルネサンス期以降の定番となりました。自由なサイズの絵が描けるようになったため、画家のもとには肖像画の依頼が多く舞い込むようになります。


『モナ・リザ』1503 - 1505 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ



 肖像画といえば、ルネサンス期に肖像画を描いてもらった日本人がいることをご存知でしょうか。

 彼の名前は伊東マンショ。

 織田信長が天下統一していた安土桃山時代に日本からローマに派遣された少年使節団の1人です。使節団はローマ以外も巡り、その地その地で歓迎されました。

 伊東の肖像画を画家に依頼したのは、ベネツィア共和国の元老院でした。依頼されたのはドメニコ・ティントレット(1560~1635年)という肖像画家として有能な画家でした。


『伊東マンショの肖像画』 1585年 ドメニコ・ティントレット


 「ルネサンス」と聞くと日本人としては遠い世界の話のように感じる人が多いかもしれませんが、当時14歳だった日本人の少年が肖像画を描いてもらっていることを想像すると、少しは身近に感じられるのではないでしょうか。




【現代に伝わるモザイク技法】


 モザイク画というと中世時代の宗教壁画のイメージが強いですが、その起源は、シュメール時代の神殿のモザイクだといわれています。



 最初は、建築物の飾りつけとして利用されたのですね。そこからテッセラとなる素材の種類や技法を進化させながらローマ帝国全土に広がっていきました。


『随臣を従えたユスティニアヌス帝』547年 

ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂のモザイク画



 モザイク技法の発展は、イスラム文化なしには語れません。聖像崇拝を否定しているイスラム教では、幾何学模様をつくるのに適したモザイク技法が発展しやすかったのです。



 イスラム教徒によってヨーロッパに広まり、イタリアでは中世時代の教会に宗教画としてモザイクが数多く制作されました。しかしその後、見るものを楽しませる表現や繊細な描写が必要となり、フレスコ壁画が好まれるようになっていきます。


『最後の審判』ミケランジェロ・ブオナローティ システィーナ礼拝堂



 ちなみにルネサンスの時代にはフレスコ壁画や油絵が主流になったため、モザイク画は下火になりますが、時を経て豪華な装飾が好まれるようになった19世紀のアールヌーボー時代に再びモザイクが流行します。

 現在でもイタリアではモザイク建築やモザイク装飾を使った小物などが人気です。


『アールヌーボー モザイク建築』


『モザイク装飾』 アルフォンス・マリア・ミュシャ



 モザイク画をつくるには、構図を考えてから、色ごとのテッセラを大量に用意する必要があり、それを1つ1つはめていかなければなりません。当時の人々にとっても非常に根気のいる作業だったと想像できます。

 それでも、素材があれば手軽につくれることもあり、いまでは趣味としても楽しめるようになっています。おもちゃのビーズを敷き詰めて模様をつくる遊びにも、モザイクの技法が受け継がれているのかもしれませんね。




アートとサイエンス


 原始時代、人は生きるために狩猟を行う必要がありました。そのために道具をつくり、儀式を行い、知恵を共有します。その痕跡が壁画です。


『ショーヴェ壁画』3万2千年前



 しかし、狩猟はリスクが高いサバイバル術であるという問題があり、それを解決する手段として農耕が編み出されます。すると今度は「土地」に執着するようになり、部族間で争いが起こります。

 やがて部族同士をまとめ上げるために王が必要となり、王がその手段として宗教や法律を利用したことで宗教美術が生まれました。


『キリストの哀悼 The Mourning of Christ』 1305年 ジョット・ディ・ボンドーネ


『最後の審判』 1536-1541年  ミケランジェロ・ブオナローティ

システィーナ礼拝堂



 写真技術の発達によって絵画の役割が少なくなるや、画家たちは新しいアートを編み出し、今度はそのアートが人々の心を打ち、社会に大きな影響をおよぼすようにもなるのです。


【写真の普及】

 •画家たちを独自の探求と実験に駆り立てた。

 •カメラは、ふとした一瞬の情景のもつ魅力や、思いがけない方向から見た面白さなどに

  気づかせてくれた。

 •画家たちは写真が太刀打ちできない領域を探らざるをえなくなった。


 1800年代はカメラと写真技術が著しい発展を遂げた時代で、それまで依頼のあった風景画や肖像画といった画家の仕事が減り始めました。

伝統的な写実表現を継承してきた新古典主義の画家アングルは、そのような社会において絵画にできることは何かを考えます。


『グランド・オダリスク』 1814年 ドミニク・アングル



 しかし、そんなアングルの心配をよそに、同時代に台頭していたロマン主義の画家ドラクロワの描く絵画のように、写真では表現できない歴史や現実の出来事を題材とした絵画が評価されるようになりました。また、写真技術の発展に促されるように、現実を写し取るだけの写真にはけっしてできない色彩表現や、好きなように誇張して描ける絵画ならではの技法が発展します。


『サルダナパールの死』1827年 ウジェーヌ・ドラクロワ



 後世では、画家エドガー・ドガも、アングルを尊敬し写実主義を主張しながらも、写真の構図を取り入れた絵画表現や新しい題材を探求していきます。その後も写真技術や映写機などといったサイエンスの進歩に刺激された画家たちによって、新しいアートは花開いていったのです。


『三人の踊り子』(1873) エドガー・ドガ



 2016年、「レンブラントの新作」が公開されました。とはいっても、レンブラントが描いた作品が新たに発見されたとか、もちろんレンブラントが現世によみがえって新作を描いたわけでもありません。「人工知能(AI)」がレンブラント風の絵をつくったのです。


 レンブラント風というと、レンブラントの画風に似せて描いただけと思うかもしれませんが、そうではなく、300点以上あるレンブラントの作品を人工知能が分析し、色づかいや筆跡、絵の具の厚みといったレンブラントの癖を学習して「レンブラントだったらこう描く」という絵を描きあげたのです。

 このエピソードからわかるように、アートはサイエンスでもあります。


人工知能が描いた「レンブラントの新作」


 AIが膨大なアートを学んでレンブラントの新作を描いたのは、「レンブラントの新作を見たい !」という問題を解決した、文字通りサイエンスですね。

 アートを学ぶということは、未来を生きるためのサイエンスにつながるのです。





著書

“アートのロジックを読み解く『西洋美術の楽しみ方』より






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