日本人は、”不快”を”快“に(解決)する文化を持っている。
日本文化は、見えない(五感で捉えた)物事を“文字(俳句)”や“絵(浮世絵)”に
可視化してきたビジュアル(美意識)文化。
”観察”とは、「よく観て、察する」こと、「気づく」こと、「気づかい」。
生活習慣に根付いた美意識。
気づいたときに感覚が研ぎ澄まされる。
葛飾北斎 画
葛飾北斎 『北斎漫画』より
東洋においては、自然と自己の境界はあいまいなので、人間だけではなく、山や海、空や雲、あるいは名もなき雑草、雑木、めだかやトンボでも、本気で向き合い描いています。
つまり、自己は自然を感知しているか否か、自然も自己を感知しているか否かだけではないと感じる故、主観と客観が一円相になることを理想とし、それを象徴的に表現することを望んできたように思われます。
『燕子花図屏風』1701-04年 尾形光琳
『百人一首 乳母が絵解』 葛飾北斎
「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」、 この仏教思想が日本のロボットや漫画のキャラクターたちに命を吹き込んでいます。草も木も土や風に至るまで地球上のありとあらゆるものに仏が宿るといった人間と同じように魂を持つという考えです。
富嶽三十六景『凱風快晴』 1832年 葛飾北斎
人も自然の一部
生き物のような気配を感じて 「富士山がいた!!」と、 思わず撮りました。
『富士山』
自然の存在を感じていないということは、直観が鈍くなっているといえます。
郷里の鹿児島は強い日差し、台風の影響、桜島の噴火といった自然の存在感が大きい。鹿児島の人だけではないが、自然の存在を感じながら生きている人たちはそれが強ければ強いほど感性が鈍らないのです。
人も自然の一部だから。最近はその恩恵を富士山や高尾山からも感じています。
『桜島』
寄り添う自然
植物には、強風に耐えるしなやかな草花、高く伸びる木々、触ると開く不思議な葉、虫を呼び寄せる鮮やかな花びらなど、さまざまな形や特徴の違いがあります。それぞれの特徴は、その地の環境や季節が大きく影響しています。
『北斎漫画』より
日本の「桜」やハワイの「プルメリア」などその国を象徴する植物があるのも、国によって違う環境や季節が、独自の植物を生み出していった結果といえるでしょう。人間と同じように、植物も長い時間をかけてその地に適した進化をとげていったのです。
深い森の中でうっそうと咲き乱れている植物は、雑多なように見えて実は絶妙なバランスを保ちながら共生しています。
冬に咲く花、日光を浴びるために高く伸びる木々、日陰でも生き続けるコケ類……。それぞれの植物が与えられた環境の中で生き残るために順応してきた結果、それぞれの形や特徴、性質を持ち備えていったのです。
『モルトフォンテーヌの思い出』1864年 カミーユ・コロー
これらさまざまな植物が、その特性を生かし枯かれては咲さくといった再生を繰り返しながら形成されている森では、季節ごとに咲く草花が入れ替かわります。そして常に生命感があふれるいろいろな自然の美しさを見せて、人に季節感を味あわせてくれるのです。
『日傘の女(左向き)』1886年 クロード・モネ
『花咲くアーモンドの木の枝』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
『名所江戸百景 亀戸梅屋敷 のぞき見る』 1857年 歌川広重
東洋画は、表現主義:自然を見て感じている、自己の精神を写すことがはじまりであり、完成とする。
西洋画は、自然主義:自然を忠実に写すことがはじまりです。
画家と絵師
人物画といえば何を思い浮かべますか? たとえば西洋画ならレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「モナ・リザ」は最も有名な1枚といえるでしょう。日本でも東洲斎写楽が描いた「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」は、見れば多くの人がわかるほどイメージが定着している人物画です。同じ人物画ですが、この2枚はかなり異なる描き方がされています。その秘密は何でしょうか。
美術解剖学を始めたダ・ヴィンチは、人体の骨格や筋肉を理解していたのに加え、遠近法も研究していたので、見たままに写しとるのではなく、モデルの特徴を誇張したり、人物の立体感や奥行きを出すために手前のものを大きく描いてインパクトを出したりしています。
このように明暗法や遠近法などの絵画技法を用いて、構造感を大切にして描かれた西洋の人物画に対して、日本の人物画は先輩絵師の絵を何枚も模写することで、その技を受け継ぐ修業しています。そのため、目鼻口や手などの形もパターン(記号)化された明快で平面的な表現となっています。
東西それぞれの絵は描く目的や文化的背景の違いで、表現が異なっていったのです。“棒人間”で骨格やプロポーションなど構造をとらえる方法は西洋美術の絵画技法で、形の印象(たたずまい)や特徴を平面的に簡略化してとらえる方法は、日本美術の絵画表現といえるでしょう。
『モナ・リザ』1503 - 1505 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
『ビードロを吹く女』1790-91年 喜多川歌麿
西洋は「絵で埋める」 細部まで描きこまれていたり、肖像画であっても背景が描かれたりしている。
『オフィーリア』 1851-52年 ジョン・エヴァレット・ミレー
※背景に描写される草花には象徴的な意味が込められている。 ヤナギは見捨てられた愛、
イラクサは苦悩、ヒナギクは無垢、パンジーは愛の虚しさ、首飾りのスミレは誠実・純
潔・夭折(ようせつ:若死に)、ケシの花は死を意味している。
西洋人は「余白があることを恐れる」が、日本は描くべきものだけを描きあとは余白にする。「日本人は満たされていることに恐れを抱く」。
『氷図屏風』 江戸時代 円山応挙
西洋画家は、脳を刺激し成長させていく”論理思考文化”を追及しました。ルネサンス以降は特に写実が栄え、視覚をいかにして正確に描写するかを追求した絵画です。
『野うさぎ』 1502年 アルブレヒト・デューラー
日本では、情緒に感動して癒され、心で理解する”情緒思考文化”が栄えました。江戸期に見られるような浮世絵、つまり視覚情報を簡略化した記号としての絵画です。
『雪中虎図』 葛飾北斎
ひとつのデータベース(一枚の版)から、手間を加えた後摺りや綺羅を巻くなどして、色んな価値観(価格帯)を生み出す少量多品種制作を可能にした浮世絵は、類稀なるテクノロジーである。
日本の線描
線で描いた絵は、視覚情報の入り口(特に物体の境界となる線の位置、傾き、太さ、動き、奥行きなどのさまざまな要素を分析)に強く訴えかけ、面で描いた絵は、最終ステージ(特に質感のある面の組み合わせで作られる形など、統合された物体の情報を処理)に強く訴えかけます。
日本のいさぎよい絵は、漫画・日本アニメのルーツ。 シンプルなイラストは明快で分かりやすいが、簡単に描くということではなく無駄な線を省いているのだ。
的確に情報を伝えられる線をみつけ最小限の必要な線だけで 印象や特徴を明快に描いている。
『鳥獣戯画絵巻』
※平安時代後期から鎌倉時代までの80年間をかけて、無名の僧侶たちによって庶民の日
常生活が、擬人化された動物キャラクターで描かれた。
オノマトペからの質感表現
オノマトペは、感触を表したもの以外にも、音や声などをまねた擬音語(ざーざー、ワンワンなど)や、状態や感情などを表現した擬態語 (だらだら、つるつるなど)があります。
『猫』 藤田嗣治
日本語はオノマトペの語彙が豊富だといわれています。たとえば「笑い」という言葉を1つとっても、「にこにこ笑う」「クスクス笑う」「ニヤニヤ笑う」「ニタニタ笑う」など数えきれないほどの表現があります。
ふだん私たちは、話し言葉や書き言葉の中でオノマトペを用いて、微妙なニュアンスの違いを伝えているのです。
とくにマンガでは多様なオノマトペが使われており、その表現方法にも特徴があります。たとえば「ふわふわ」と「キラキラ」は、それぞれ雲と金属のような質感の違ちがいを組み合わせることで、オノマトペそのもののイメージを視覚的に伝えられます。
他にも効果音では、文字に石の材質を描いて「ゴンッ」というオノマトペに重さや硬かたさの質感を加えています。
『ドラゴンボール』
ふだん何気なく使っているオノマトペの文字にも絵の質感表現を加えることで、より的確に雰囲気や様子、状態を表現できるのです。
動画的な視点で描いた江戸の絵師
世の中に動画というものがない時代に動画的な視点で描いていた絵描きがいた。宗達、光琳、広重、北斎、…、そして若中。
『鶴図下絵和歌巻』 俵屋宗達
西洋絵画は”場面”を光と影で劇的に捉え歓喜を伝える、いわゆる広告看板。
『聖マタイの召命』1600年 カラヴァッジオ
日本の絵師は瞬間を捉えるのではなく、連続性や構図で時間の流れを捉える”映像”を描いていた。
『群鶏図』 宝暦11年(1761年)-明和2年(1765年)頃 伊藤若冲
江戸時代に俵屋宗達が描いたとされている(作者の落款が押されていない)【風神雷神図】からは、映像的な動きが伝わってくる。 三十三間堂にある勇ましく躍動感が特徴の鎌倉時代につくられた木彫をモデルにして描かれている。
日本が伝える文化
平安時代の絵巻物や江戸期に見られるような日常の風情に感動して癒される浮世絵は、脳を休める情緒思考文化である。
日本人は、不快を快に転じることのできる文化を持っている。 西洋の画家たちを驚かせた浮世絵師 広重の雨の表現。 当時、線で雨を視覚化する発想はなかった。今、当たり前のものとしてみている、感じていることは先人が気づかせてくれた。
『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』 1857年 歌川広重
日本文学も俳句もビジュアル的な言語、生け花も茶道もビジュアル的な文化、日本の文化は映像文化なのです。
日本人は、世界の中で絵が上手い民族であることをあまり意識していません。日本人はビジュアル人間、ビジュアルを巧みに操ってきた民族なのです。だから日本アニメや漫画は世界から支持されています。そのDNAをもっと教育や仕事に活かせるのです。
富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』 1831-33年(天保2-4年)頃 葛飾北斎
世界的にも著名な画家 葛飾北斎は「70歳までに描いたものは取るに足らない」と、晩年に掛けた信念、衰えない絵への執着心を示していました。様々な表情の富士山を描いた代表作《冨嶽三十六景》は、北斎がじつに70代になってから制作されたものです。
このシリーズは、当時に熱狂的な富士山信仰もあったことで浮世絵史上屈指のベストセラーとなりました。
宗教美術を中心とした西洋絵画には、北斎が広めた風景浮世絵版画のように自然を楽しむような庶民の文化はまだなかったのです。
『富嶽三十六景』 葛飾北斎
その後10年ほど浮世絵の発表を続けますが、最晩年はまた絵手本と肉筆画、いわゆる挿絵画家としても活躍しました。それからも自ら「画狂老人」と名乗り、88歳で没するまで創作意欲は衰えることはありませんでした。
北斎が6歳のときに江戸で浮世絵版画の多色摺の技術が完成し、華やかな織物に例えられ「錦絵」と呼ばれました。絵草紙屋の店頭に並んだ錦絵は、幼い北斎にとって心を躍らせる最新鋭のマスメディアだったわけです。10代の頃に北斎は木版画の彫師として修行を積み、やがて浮世絵師に弟子入りし、おもに役者絵を描いていました。90年におよぶ北斎の人生は、物心ついて間もない頃から、浮世絵版画の歴史とともにあった”錦絵の申し子“と言えます。
88歳と、当時では長命だった葛飾北斎ですが、没するまでに、当時のペンネームともいえる号を30回も改めました。主な号として挙げられているものだけでも、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」の6つ。晩年に至っては「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」というユニークなペンネームを名乗っています。葛飾北斎が次々と改号していた理由には、号を弟子に譲ることで収入を得ていたという説もありますが、実際、著名な「北斎」の号も弟子に譲っていたようです。また、自らの才能をオープンにすることをよしとしない性格だったからという説もみられます。
『東洲斎写楽』
35歳の頃、北斎は「俵屋宗理」と名乗ります。琳派の祖とされる俵屋宗達(生没年未詳)との関係性をほのめかす名前ですが、詳しいことはわかっていません。
『鶴図下絵和歌巻』 俵屋宗達
行儀作法を知らず挨拶はしない、金銭に無頓着、身なりには気を遣わない、歩く時に呪文を唱えていたなど、葛飾北斎の奇人エピソードは多々あります。改号30回に加え、引っ越しは93回したともいわれている葛飾北斎。たび重なる引っ越しの理由もふるっていて、掃除をしないので、部屋が汚れるたびに引っ越していたとも言われています。また、出来の悪い着物を身に着けて、他人から「田舎者」と言われることを密かに喜ぶような気性だったという話もあります。
『雪中虎図』1849年 葛飾北斎
絵を描くことに関して、非常にストイックで、いくつになっても探求心が衰えることのなかった葛飾北斎。「私は73歳でようやくあらゆる造形をいくらか知った。90歳で絵の奥義を極め、100歳で神の域に達し、110歳ではひと筆ごとに生命を宿らせることができるはず」と、死の数ヶ月前に描いたという《雪中虎図》は、虎の質感や肢体が独特の雰囲気で老いてなお上を目指す北斎の心のようです。
今際の際、「天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら、いや、あと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう」と言ったと伝えられています。
日本人を見直す言葉
坂東玉三郎氏の芸の目的は「お客様に生きていてよかったとおもっていただくこと」
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