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  • 執筆者の写真sfumita7

歴史には残らない家族 

更新日:6月30日




何を記憶し、記録をしていくか


 史観は、成功よりも挫折と失敗の場面を、幸よりも不幸を、はるかに多く呈示する。

「歴史の幸福なページは空白」、哲学者ヘーゲルが語る様に”社会”を凝視するという事は、未来を切り開くための手がかりをつかむ事なのかもしれない。


   歴史には、記録には残らない”現実”もあるから、私しか残せない残そうとしない個人的な「記憶と記録」から社会をみてみる。


『記憶の記録 数分間 ホームシアター 』



 webが急速に発達し、誰もが視覚的にそれまでは知られることもなかった事実や情報が垂れ流され飽和状態となっている。

 人が正しく認識して判断できる情報量を超えてきている。情報の発信も受信の選択も意識と意思をもって判断することが大切だと感じている。

『2008 プライベートタイム』



 私の制作のモチベーションは、身近な所から見付けている。その事が最も「記憶」として生々しいからである。毎日の生活の中で、習慣としている事を通じて、その変化を敏感に察知する作業は、自分を取り巻く社会を正確に捕らえる「記憶」となると考えている。


 更にこれから起るであろう社会の有事を洞察し、それに適応する術を「記録」していく。


『パス停留所でお出迎え』


『古河庭園』


『隅田川の数分間』


『泉』




記憶と記録


 旅行で撮影したスナップ写真に落胆する事が多い。例え、仕上がりが美しい写真だとしても違和感がある。記憶に残っている印象とは別物に感じられて、「記録媒体」としては、 納得できたことが少ない。私が絵を描いてきた事で培った感覚も影響しているのか、写真の持つ情報だけでは「記録」として満足できない。ビデオ映像も例外ではない。(さながら窓から、外の様子をうかがうような’もどかしさ’’物足りなさ’に似ている)。



 従来の撮影だけでは、現場で体感した臨場感が写真に反映されにくい。それは、写真に含まれる情報の限界と、人間の五感機能、脳の働きに関する謎に問題が隠されている。まず「記憶」は、何から構成されているものなのかを想定してみる。

   その要素(光、空気、音、時間、感情など)を体感する「現場での情報」と、それに繋がる「過去の情報(脳に貯えられている記録)」とに二分してみる。


 「思い出」として回想される瞬間に、その前者と後者が、どんな条件(状況)下で、どの様に絡み合ってくるかで”それ”は変異する。全く関係のない情報が、意識とは関係なく結びつく可能性もある。



   どんなに状況を揃えたとしても、違う人間に同じ記憶は存在しない、ひとりの人間の場合、類似する記憶はあったとしても、その状況により厳密には条件が異なるので、思い出すたび全く同じ記憶が蘇ることはあり得ないという事が想像できる。


   その認識が、日常生活のコミュニケーションにも影響してくる(同じ時間を共有している様で、その出来事のとらえ方で変異する「現実」。それは、類似はしていても違う記憶として認識する方が自然である)。



 記録する事において、写真はどこまで信頼できるのか。もしかしたら画家の卓越した目を持って描かれた絵画に含まれる情報量が、写真の情報を越える事もあるだろう(顔のモンタージュ写真より、幾つかの情報をもとに描かれた似顔絵の方が、参考メディアとして信頼できる様に)。

 逆に絵画的な表現力を写真制作に導入できたら、より「記憶」に近い「記録するメディア」になるだろう。




『横浜』


『明治神宮 夕暮れの数分間 』


『妻の実家』


『静岡 台風前日』


『実家 妻の遊び場』



 新しい生活様式への転換をきっかけに自宅や近所、地域のことを見直している。それがとても良い。 

 ベランダ菜園にはじまり、在住している多摩地区で、狭山丘陵や奥多摩、薬草植物園など、散歩感覚の観光気分を家族で楽しめるスポットが増えてきている。

何よりも家族の中での発見、嬉しい価値変換が起きていることが楽しい。


『読書』


『池』


『入口出口』


明治トンネル(有形文化財)


 静岡市と藤枝市の境にまたがる宇津ノ谷峠に日本最初【明治9年(1876)】の銭取りトンネルがあります。家族で峠を歩いてみましたが、高尾山登山のように爽やかで気持ちがよく、時代や時間の感覚がなくなりタイムトラベラーになった感じがしてきます。峠の民家の縁側で日向ぼっこしている置物のようなおばあちゃんの膝で、猫が丸まってたりして、のどかでいい感じでしたよ。午前中がオススメ。日が暮れると怖そう。




『二人分』



『シーソー』


『主がいない時間 団地の公園』



『小田原漁港』


『ローマの広場』



『カンポ広場』


『エッフェル塔』



『ノートルダム』


『橋 パリ』


『記念碑』




写真で捉えるドローイング


 デジタルカメラを使用し、視線の跳躍(瞬間移動)に合わせてシャッターをきる。立ち止まった地点からの視野の範囲内で、数百枚のカットを撮影する事になる。撮影されたカットをつなぎ合わせ、「記憶」に忠実に再構築する。再構築された画面には、撮影時の時間の経過、カットごとの観点の情報が含まれる。多数の観点の総合的な情報によって造られる画面は、人間の視覚機能、脳が空間認識するシステムに近い状態で、視覚データ化される事になると考えられる。

 総合的な情報処理の中には、撮影の現場で「五感」によって感じとった感覚も、感情表現(絵画表現で培った色彩感覚や画面構成など)として含まれながら画像処理される。


 この一連の撮影作品は、「写真」というよりは「絵画」に近い感覚で制作(ドローイング)されている。


『公園散歩』


『瓦屋根』


『神田明神』


『都庁』


『渋谷センター街の数分間 』


『新宿三丁目交差点』




記録の空間


 記憶と記録、写真の持つ二つの特性をデジタル技術とインスタレーションによって新しい形で結び付ける。

 私の「記憶をデジタル処理化した場面」数百カットを、指定された場所(展示スペース)に再構築することで、「記録としての空間」を出現させる。

 その画像は、侵食する様に展示スペースの壁面や床を拡充し、過去に存在した「記録の世界」と「現実の風景」を融合する。その様は、無意識に蘇ってきた過去の記憶を日常の意識の中で、無意味にたどってしまう行為に似ている。


『記憶と記録 基準形成』

2002. 11月 第57回 南日本美術展:JAL賞受賞





『記憶と記録 大河』

2003. 11月  第58回 南日本美術展:空間造形部門 優秀受賞受賞




2004年 『 記憶と記録 』




『記憶と記録 天地悠遠』

2005. 11月  第60回 南日本美術展:空間造形部門 優秀受賞受賞 






『 記憶と記録 都庁 』

2006. 11月  第61回 南日本美術展:空間造形部門 委嘱作家賞受賞





『 記憶と記録 神田祭 』






『 記憶と記録 プライベートタイム』

2008. 11月  第63回 南日本美術展:空間造形部門 委嘱作家賞受賞






2010年 『記憶と記録 ふたつの生活』





『記憶と記録 記憶ハイブリット』

2012. 11月  第67回 南日本美術展:空間造形部門 委嘱作家賞受賞






2014年 『 ハイブリットソール 』






2011年『 記憶と記録 』






2012年『 記憶と記録 』

2012. 11月  第67回 南日本美術展:空間造形部門 委嘱作家賞受賞





2015年『 ブレイク・スルー 』


2015. 11月  「第70回 南日本美術展 70周年記念大賞受賞」鹿児島・黎明館






2018年『ブレイク・スルー』

2018. 4月  「岡本太郎現代芸術賞展」東京・岡本太郎記念美術館





みんなクリエイターになれる 


   創作は本質に向かうから面白い。本質に触れると楽しい。芸術、芸能、スポーツなど特殊な分野、職種だけではなく日常的な生活、仕事そのものに 創造性が求められてきている。 創造性を意識すると毎日の作業が創作に変わり、やりがいや生きがいを感じられる。


 創造性はアートの世界だけではなく、 繰り返される実生活の中でこそ効用を発揮する。

自分の視座・視野・視点が変わることで世界の見え方が変わる。アートに触れることで、

日常を非日常に変えるのではなく、当たり前のこととして見過ごしている”日常の奇跡”に気づいて、視座が変わり視野が広がって視点が多角化して、結果的に今までの日常が変わる。

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