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  • 執筆者の写真sfumita7

記憶と記録、跳躍する視線

更新日:1月11日



アートで五感を磨く


目で見ているのではない。脳で観ている。

視覚情報を処理するときに脳の25%、神経経路の65%以上が使用され

これは他のどの感覚よりも使用率が高い。

絵を観るだけで脳が活性化され五感が磨かれる。

絵を鑑賞(読み解く)することは、 観察力・思考力・伝達力を磨く。




跳躍する視線


具象画家は、一枚の絵を仕上げていく間に何度も対象物を観察し、観点を確かめながら描いている。観察された情報だけではなく、様々な状況や記憶との葛藤が具象画に直接、表現されていく。時間の経過や作家の心情、視線の動きが、刻印されるといってもよい。写真は、一瞬の作業の詰み重ねである。幾つかの視線の総合的な情報によって描かれる具象絵画に比べて、写真撮影は一つの視線の動きで、すべての判断を瞬間的に行っていく作業(転写)である。絵画には、「画家の解釈」が具現化される。


人間が物を視て判断する時の眼球運動は、観たいところに止まる固視状態と、次の箇所に移動する速い跳躍状態を繰り返し行う。勿論、視覚機能だけではなく大脳のメカニズムも関係している事はいうまでもない。このような人間の持つ身体機能からみてみると、カメラの構造は、眼球に近いが、写し出される写真は、人間の記憶とは程遠い。

人は視覚神経から脳を刺激し、それを含む幾つかの情報を身体機能で感知する。それらを総合的に判断し記録し引き出す人間の記憶システムは、写真やビデオ映像よりも、原始的な技能である、絵筆で描かれた絵画的伝達システムに近い。

他に「視野」の問題もある。その特殊な首の構造によって、極端に狭い視野を拡げているフクロウ、後方にのびた自分の胴体の影の範囲以外は見える馬の視野。私たち人間の視野は、耳側におよび、やや下方に拡がった変形した楕円形をしている(平面上ではない)。このような人間の持つ機能を、一つ一つ探究し認識した表現が、人間にとってリアルなメディアとして伝承されていくと考えている。


マルチ人間だったレオナルド・ダ・ヴィンチ(芸術家、技術家、科学者)は、自然界の構造から発見した力学のシステムを、多岐にわたる分野の動力や道具の発明を推進するために応用していった。人体解剖をはじめたダ・ヴィンチの真意はわからないが、その原点が、”人”にあると確信していたのだろう。





《 『記憶と記録』作品シリーズ 》



制作コンセプト


 記憶と記録、写真の持つ二つの特性をデジタル技術とインスタレーションによって新しい形で結び付ける。

 私の「記憶をデジタル処理化した場面」数百カットを、指定された場所(展示スペース)に再構築することで、「記録としての空間」を出現させる。

 その画像は、侵食する様に展示スペースの壁面や床を拡充し、過去に存在した「記録の世界」と「現実の風景」を融合する。その様は、無意識に蘇ってきた過去の記憶を日常の意識の中で、無意味にたどってしまう行為に似ている。



『 記憶と記録 基準形成 』

2002. 11月 第57回 南日本美術展:JAL賞受賞




作品制作について


 デジタルカメラを使用し、視線の跳躍(瞬間移動)に合わせてシャッターをきる。立ち止まった地点からの視野の範囲内で、数百枚のカットを撮影する事になる。撮影されたカットをつなぎ合わせ、「記憶」に忠実に再構築する。再構築された画面には、撮影時の時間の経過、カットごとの観点の情報が含まれる。多数の観点の総合的な情報によって造られる画面は、人間の視覚機能、脳が空間認識するシステムに近い状態で、視覚データ化される事になると考えられる。

 総合的な情報処理の中には、撮影の現場で「五感」によって感じとった感覚も、感情表現(絵画表現で培った色彩感覚や画面構成など)として含まれながら画像処理される。

 この一連の撮影作品は,「写真」というよりは「絵画」に近い感覚で制作(ドローイング)されている。





『 記憶と記録 大河 』

2003. 11月  第58回 南日本美術展:空間造形部門 優秀受賞受賞




2004年 『 記憶と記録 』




『 記憶と記録 天地悠遠 』

2005. 11月  第60回 南日本美術展:空間造形部門 優秀受賞受賞 





『 記憶と記録 都庁 』

2006. 11月  第61回 南日本美術展:空間造形部門 委嘱作家賞受賞





『 記憶と記録 神田祭 』







記憶と記録


 旅行で撮影したスナップ写真に落胆する事が多い。例え、仕上がりが美しい写真だとしても違和感がある。記憶に残っている印象とは別物に感じられて、「記録媒体」としては、 納得できたことが少ない。私が絵を描いてきた事で培った感覚も影響しているのか、写真の持つ情報だけでは「記録」として満足できない。ビデオ映像も例外ではない(さながら窓から、外の様子をうかがうような’もどかしさ’’物足りなさ’に似ている)。従来の撮影だけでは、現場で体感した臨場感が写真に反映されにくい。それは、写真に含まれる情報の限界と、人間の五感機能、脳の働きに関する謎に問題が隠されている。

 まず「記憶」は、何から構成されているものなのかを想定してみる。その要素(光、空気、音、時間、感情など)を体感する「現場での情報」と、それに繋がる「過去の情報(脳に貯えられている記録)」とに二分してみる。「思い出」として回想される瞬間に、その前者と後者が、どんな条件(状況)下で、どの様に絡み合ってくるかで”それ”は変異する。全く関係のない情報が、意識とは関係なく結びつく可能性もある。

 どんなに状況を揃えたとしても、違う人間に同じ記憶は存在しない、ひとりの人間の場合、類似する記憶はあったとしても、その状況により厳密には条件が異なるので、思い出すたび全く同じ記憶が蘇ることはあり得ないという事が想像できる。その認識が、日常生活のコミュニケーションにも影響してくる(同じ時間を共有している様で、その出来事のとらえ方で変異する「現実」。それは、類似はしていても違う記憶として認識する方が自然である)。

 記録する事において、写真はどこまで信頼できるのか。もしかしたら画家の卓越した目を持って描かれた絵画に含まれる情報量が、写真の情報を越える事もあるだろう(顔のモンタージュ写真より、幾つかの情報をもとに描かれた似顔絵の方が、参考メディアとして信頼できる様に)。逆に絵画的な表現力を写真制作に導入できたら、より「記憶」に近い「記録するメディア」になるだろう。

 次に、何を記憶し、記録をしていくか。史観は、成功よりも挫折と失敗の場面を、幸よりも不幸を、はるかに多く呈示する。「歴史の幸福なページは空白」、哲学者ヘーゲルが語る様に”社会”を凝視するという事は、未来を切り開くための手がかりをつかむ事なのかもしれない。記録には、歴史には残らない”現実”もある。私しか残せない、残そうとしない個人的な記憶から社会をみてみる。

 「作品制作について」の項目でも記述したが、私の制作のモチベーションは身近な所から見付けている。その事が最も「記憶」として生々しいからである。毎日の生活の中で、習慣としている事を通じて、その変化を敏感に察知する作業は、自分を取り巻く社会を正確に捕らえる「記憶」となると考えている。更にこれから起こりうる社会の有事を洞察し、それに適応する術を「記録」していく。




『  記憶と記録 プライベートタイム 』

2008. 11月  第63回 南日本美術展:空間造形部門 委嘱作家賞受賞






2010年 『 記憶と記録 ふたつの生活 』





『 記憶と記録 記憶ハイブリット 』

2012. 11月  第67回 南日本美術展:空間造形部門 委嘱作家賞受賞






2014年 『 ハイブリットソール 』





2011年 『 記憶と記録 』






2012年 『 記憶と記録 』

2012. 11月  第67回 南日本美術展:空間造形部門 委嘱作家賞受賞





2015年 『 ブレイク・スルー 』

2015. 11月  「第70回 南日本美術展 70周年記念大賞受賞」鹿児島・黎明館






2018年 『 ブレイク・スルー 』

2018. 4月  「岡本太郎現代芸術賞展」東京・岡本太郎記念美術館



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