sfumita7
造られる個性
ピカソがわかると面白い(多重視点構造⇔単視点構造)


正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。 ピカソは生涯に 2回 結婚 し、3人 の女性との間に 4人 の 子供 を作った。 「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」 「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」 ■『青の時代』のピカソ(1901~1904年) 1901年、友人の一人がこの世を去ってしまいます。とてもショックを受けたピカソは、貧困や孤独、絶望をテーマにした冷たい青色を多くつかった。

■『ばら色の時代』のピカソ(1904~1907年) 暗い『青の時代』から急に明るい色調の絵画を描きだしたきっかけは、恋愛でした。 ピカソは1904年に オリビア という女性と出会い、付き合い始めます。サーカスや旅芸人を題材にした明るく、にぎやかな絵画を描いています。 この頃に描いた絵はよく売れ、ピカソ(23歳)は 有名な画家 になっていきました。

1907年、新しい恋人 エヴァ(本名はアンベール)。 キュビズムの絵画に変化していった(ピカソ26歳)。 ■キュビズムの時代(1907~1916年) ピカソの絵画と聞いて思い浮かべるのは、このキュビズムの時代の絵画でしょう。 1915年には恋人のエヴァが病気でこの世を去ってしまい、ピカソは一人になってしまいます。

■新古典主義の時代(1918~1925年) ピカソは、キュビズムの絵画をずっと描いていたわけではありません。この時代はゆったりとした人物をイキイキと描いています。人物たちの形もまるくなっているのが特徴です。

オルガ という女性と出会い、結婚します。 1920年代の後半からは、オルガとの生活がうまくいかなくなります。ピカソ(39歳)はアトリエに閉じこもり、挿絵を多く描くようになりました。 ■シュルレアリスムの時代(1925年~) この時代から晩年にかけてのピカソの作品はシュルレアリスムの手法だけではなく、様々な手法を取り入れています ピカソが46歳のとき、17歳のマリー=テレーズ・ワルテル という女性を出会い、付き合い始めます。 ピカソはオルガと離婚できずに長い別居生活が始まります。 マリーは1935年にマヤという女の子をうみます。ピカソはマヤがうまれた後に ドラ という女性と付き合いはじめます。

1936年からのスペインでの内乱をきっかけに、ピカソは1枚の絵を描きます。攻撃された町の名前を、そのままタイトルにした有名な『ゲルニカ』です。

1943年、21歳の 女性画家フランソワーズ と付き合い、1945年にドラと別れました。 フランソワーズと付き合っていたときのピカソ(62歳)は、絵画を制作しつつ、陶器もつくっていました。 フランソワーズは1953年に子供をつれて出て行ってしまいます。 一時はショックを受けたピカソ(72歳)ですが、またすぐに別の女性 ジャクリーヌ と付き合いはじめ、2度目の結婚をします。 ピカソは一生の間に13,000点の絵画、100,000点の版画、34,000点の挿絵、そして300点もの彫刻を制作しています。 一日あたり2~3枚以上のペースで絵画や版画を制作していた計算です。

ピカソの絵画で特に印象深いのが、キュビズムの時代です。そのため、ピカソの絵が難しすぎてよくわからないという人や下手な絵なのになぜか有名な画家、と思っている人も多いのは確かです。 ですがピカソの絵画の時代の移り変わりを見ていくと、ピカソはまさに天才だと実感できるはずです。 ピカソの絵画は、全て考え抜かれて描かれているのです。ピカソはこんな言葉を残しています。 「なぜ自然を模倣しなければならないのか?それくらいなら完全な円を描こうとするほうがましなくらいだ」 〇アバンギャルド(反体制) ※伝達手段の発達(映画)。 •キュビズム(多重視点構造⇔単視点構造)。 〇それまでの具象絵画が一つの "視点" 視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め、 ルネサンス以来の"一点透視図法" 一点透視図法を否定した。 〇ルネサンス以降の遠近法を放棄し、描く対象を複数の視点から3次元的に捉え、1枚の平面(2次元)の中に表現した。 ルネサンス以来の「単一焦点による "遠近法" 遠近法」の放棄(すなわち、複数の視点による対象の把握と画面上の再構成) 形態上の極端な解体・単純化・抽象化 を主な特徴とする。 "フォーヴィスム" フォーヴィスムが色彩の革命であるのに対して、キュビスムは形態の革命である、という言い方をされることもある。 要は、正面、横、後と色んなところから“見た目”を一場面にまとめたといったことがキュビズム。 ちなみに フォーヴィスムは"キュビスム" のように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図に従属するものではなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に使われるべきであるとする。 出会った女性たちや周りの友人,ライバルたちによって”天才ピカソ”も”個性的な作品”も作られていったといえます。