印象派の画家であるモネとルノワールは長生きしたおかげで、パリに生まれた新しい絵画表現を世界的に知らしめた勝利の成果を晩年にたっぷり味わい、尊敬されるようになったのです。
若きモネたち、才能ある印象派画家が描く絵を当時、憤慨し嘲笑していた批評家たちは自分たちのいい加減さを証明し、美術批評は権威を失う破目になり、二度と失地を回復することはありませんでした。
『印象・日の出』1872年 クロード・モネ
若き二人の作品は売れず生活は困窮していましが互いに助け合う日々を過ごしていました。その頃、芸術家にとっては公式美術展覧会サロン・ド・パリで入選することが憧れでしたが、古き慣習と権威を守ろうとする美術批評は美術の革命家といえる若き画家たちが描く絵に憤慨し嘲笑して認めようとはしませんでした。
そんなサロンに対抗して、モネら画家たちが1874年にグループ展を開催しましたが、出品された絵は「勉強不足だ」「未完成だ」などと酷評されます。
印象派の最初の頃の展覧会を取り上げた、ジャーナリズムの論評
" ペルティエ通りは御難つづきである。オペラ座の火事の後、新手の災難の登場だ。デュラン=リシェル画廊で展覧会が始まったばかりだが、主催者によれば中身は絵画だという。中へ入ると、私は恐ろしいものを目にしてすくみ上った。女性ひとりを含む5、6人の頭のおかしい連中が集まって、自分たちの作品を展示している。人びとは絵を見て大笑いしていたが、私の心は痛んだ。彼ら、画家気取りの連中は、自分たちのことを革命家と称し、「印象派」だと公言している。連中ときたら、カンヴァスと絵具と筆を用意し、カンヴァスの上にあちこち出鱈目に絵具を塗りたくって、はい、出来上がり、と署名する。精神病の患者が道端で石ころを拾って、ダイヤモンドを見つけたと思いこむのに似た錯覚である。"
絵に印象しか描かれていないと感じた批評家ルイ・ルノワは、侮辱的な意味でモネの絵のタイトル「印象派」を引用して「印象派たちの展覧会」という記事を書きます。しかし、モネたちは自分たちを表す言葉として自ら使うようになったのです。
そんな中、モネとルノワールは互いに才能を認め合い、スケッチ旅行を共にするなどして絵画表現を磨き続けました。
『ラ・グルヌイエールにて』 1869年 ピエール=オーギュスト・ルノワール
二人は切磋琢磨しながらもそれぞれ自分の良さに気づいていき、モネはたくさんの風景画を描き、対照的にルノワールは自分の家族や友達などの人物画を中心に描いて後世では「風景のモネ、人物のルノワール」と呼ばれました。
『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』1890年 クロード・モネ
『ムーランド・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』1876年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
モネは晩年に白内障を患いながらも、絵具の色を嗅覚で嗅ぎ分けて絵を描き続けました。
絵を描くことを生涯、修行ではなく楽しみ続けたルノワールは 最後にアネモネの絵を描きました。「ようやく何かがわかりかけた気がする。」という言葉を残し、その夜に亡くなったそうです。78歳でした。
『アネモネ』1883年90年 ピエール=オーギュスト・ルノワール
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