最後の秘境 東京藝術大学(美術学部)に在学中の創作日記
1995年 9月-10月 日仏現代美術交流「パリ展・開かれた扉」 バスティーユ パリ
人を越えようとした王様
その王は、臆病
必要でない力があり過ぎた
使いこなせる力の限界を越えたときから狂い始めた不運の人
その王は、人間
人の中に入ることを嫌った
自分が何であるかを知らなかった
知れるだけのものをもっていたことに気がつかなかった
いつも満足できなかった
不満が不安に変わっていった
その王は、傲慢
いつも上にいたかった
何も支えることができなかった
その王は、道を運び間違えた
そして、何も成しえなかった
『人を越えようとした王様』 パネル(1800×850)mm アクリル・パステル・鉛筆
王様になろうとした家来
その家来は、王様の欠点を知った
悩みも知った
従順に仕える術も知った
使われる立場も知った
ただ、立ちはだかる者への信頼が消え、求めるものが変わった日
からの行動に自我が芽生えた
目的が見得て、不満が積もった
真実も現実も問題ではなかった
彼は学び、行動し、目的のためだけに努力した
家来は、王としての悩みを知らず、王としての欠点を知らず、家来としての力を捨てた時、
自我を失い破滅した
従順でない者たちの群れに気がつかず、家来の単なる野望に終わった
『傍観者』 キャンバス(116.7×91)mm 油彩
1987年9月 東京藝術大学 学内展示室(東京・上野恩賜公園内)
記憶の色
ある匂いを嗅いだときに懐かしい感情が、急激に沸いてくることがある。何の匂いなのか未だにわからない。初めて来たはずなのに妙に落ち着く場所があるが、なぜなのかわからない。好きな色、嫌いな色はあるけれど、懐かしいと感じる色を見つけたことが今まで無い。
突然記憶が蘇る
特別なことでなく、特別な場所でもない
突然何かが蘇る
記憶しているものなのか、記憶が生んだものなのか判別がつかない
記憶を追うことと想像することは違うけど、両者が刺激し合っているに違いない
今があるから記憶がある
記憶は、嘘か真実か
想像は、虚像か現実か
記憶と想像で生きることが、無駄かそうではないのか
創造することで、解答のきっかけが見つかる気がする
色を感じることで、記憶の意味がわかる気がする
記憶の色を追うことで、自分を見れる気持ちが沸いてくる
『記憶の色』(728×513)mm×3 アクリル・フィルム
伝達マシーン
遺跡が伝えてくれること。良いことも悪いことも現代人の受けとり方はどうなのだろうか。正しく受けてとっているとしたら、なぜ戦争を繰り返すのか、どうして差別をするのだろうか。形あるものだけに興味を持ち、形が無いものを大切に思えないことが、災いしているのかもしれない。
あるいは現代人にはもう理解できなくなってしまっていることがあり、それについて考えようともしないとしたら、寂しいことである。
大切な何かをずっと引き継いで記録し記憶しているはずなのに、すでに気がついているのにあたり前のこととして流してしまう。生き残ってきたものが言わんとしていることを聞こうとする態勢がなさすぎるのではないだろうか。
始まりも終わりもない
姿が変わっていく過程のせっかちな判断
現在の姿は、仮の姿
姿に惑わされ、普遍的なものを粗末にしている
次に継ぐためにどんな姿を掲示し、何を警告するのか
毒化、特効薬か
一人から始まること、できること
終わりを持たない始まり、開始のない継続
継続すべきことを考えるのが、伝えることの始まり
『伝達マシーン』(1800×1300×1300)mm ミクストメディア
賢者の私生活
みたい夢をみる
いつでも自由にみれる夢
本心なのか、無いものねだりなのか
いま与えられている状況からの逃避なのか
次第に夢から縛られる、知らないうちに夢から狂わされていく
自然に持ちえたものが、自分と無縁なものと考えるより、大きく関わってくると
実感していくことが、自分を開放していける
みたい夢をみることができる
『賢者の私生活』(1800×1500×300)mm ミクストメディア(紙・鉄・アクリル)
忘れがちな流れ
未来を求め、過去と共に生きている。時間に流されて、今の自分を考えることがめったにない。未来に期待して、過去を反省して、いつも何かに追われている。
時の流れは変えられないが、自分の中での時間はどうにでもなる。どんな時間を見つけていけるのか、流れをどう変えていくのか、考えられる余裕を自分の中に置いておきたい。
何かを残す
かたちを見せ、見えないものを残す
速い流れの中に入ると見えにくい、あるいは見ることさえも忘れてしまう
流れに乗れないから見えてくることもある
未来と過去とは、違う時の流れの中
瞬間のことではなく、数日の現実でもなく
自分だけが創りえる流れ
その流れの中で、新鮮な流れを眺める
そこで見えてきたものが、新しい流れを創るきっかけになる
そして、何かを残すことになる
『忘れがちな流れ』 パネル(728×515)mm アクリル・コラージュ・木炭・パステル
許される範囲
知るということが、良いことだとは決して言いきれない。知らない方が良かったといえることもある。知るということで、自分を見失うこともある。
バベルの塔とは、なんだったのか
分裂の始まり
みんなそれぞれの目的で高い場所をめざす
向上心が無いとしたら、無くてもいい状況があったとしたら
ものは言い様、考え様
人がもつ「器」
自分の流れを外れないこと、自分の流れを知ること
大きさ、深さはともかく、見事な「器」に仕上げたいものだ
ものは言い様、考え様
バベルの塔は、なんだったのか
人に何かを教えてくれた魅惑の塔
『許される範囲』 パネル(728×515)mm アクリル・コラージュ
生活の条件
「住めば都」と言うけれど、その場所で生活するためにもそこで生き続けるための能力が必要となる。人には知恵があるはず、あらゆることを学べる人間にとって能力があるかないかより、持っている力をどう使っていくべきかに問題がある。
光に集まるもの
光を避けるもの
水に生きるもの
水を求めるもの
求めるところに逃れても、生きるためのしがらみが、またそこにある
能力を発揮するための知恵を持ち、運を招き、自分が持ち得た力を才能にする
人として、だだ生きるのではなく、どう生きるかである
何かがありそうな群がある
群がることでできることもある
何もできない群がある
群には入ることで目的を亡くすことがある
弱いから外れるのではなく
敏感だから外れていく
外れたものが集い、またつくるものがある
『生活の条件』 パネル二枚組(910×1127)mm 油彩・アクリル
舞台
どこでも舞台になりえる。石の上、水の上、雲の上、木の上、草の上、土の上、海の底、テーブル、…、何でも役者になりえる。虫、魚、鳥、葉っぱ、果実、鉛筆、ゴミ、足、…、人の想像力で、いつまでもどこでも舞台を体験できる。
靴屋に行ったときのこと、若い女性が台の上に片足を乗せ、店員相手にあれやこれや色々な靴を履き替えては、女性の足元に注目していた。舞台の上で、早変わりを演じている役者を観ているように思えた。
見上げるような舞台
玩具のような舞台
絵画の中を動き回る役者、動くから構図が選べる
主役のために脇役がみえてくる
脇役の動きで構図がかわる、主役の観方もかわってくる
優れているものの表れ方が違う
どちらも損をして得をする
でかい舞台も小さい舞台も表れるものに違いはない
自然の姿、あたり前のことが感動につながる
『舞台』 キャンバス二枚組(1455×970/530×530)mm 油彩
閉鎖された塔
今はいまで、先のことを考えてはいるが、多分予測とは違う未来があるということが、今の僕にとって一番の励みになる。予感なのか自信なのか「そんな気がする」そんなものが、自分の未来を左右している「そんな気」がする。
独りだとできないことがある
独りだとできることが、群に紛れるとできなくなることがある
大切なものを誰が知っている
自分が知っている
知っているのに大切なことにならないのはどうしてだ
自分が大切にしていないから
自分を閉ざしてしまうのは、自分以外の誰にもできない
閉ざしてしまうものは、いらない
閉ざされた先には、目指すものがある
すでに持っている
「戦争なんか嫌だ」と言っても、世界のどこかで起こってしまう。中東問題で、イラクの兵士が「この戦いは聖戦だから、私は参加する。」と言っていた。皆が戦争を拒んでいるわけではない。
問題点に気づいても「このままでは駄目だ」と思っているだけでは、実状はなかなか変わらない。
『閉鎖された塔』 パネル(1800×850)mm アクリル・パステル・コラージュ
コミュニケーション・パフォーマンス
展示してある作品、企画への興味などによって集まる人たちだけでなく、無意識、あるいは全く違う目的で集まった人々との交流も作品を通して実現していくための試み。
公園の一部に何も属さない空間を決められた時間対だけ実現させ、その場に訪れた人々の反応をみる。あるいは語り合ってみる。日常では、語り合うはずもない出会うはずもない違う分野の人々と、異端の意見を模索する。
『コミュニケーション・パフォーマンス』1987年9月 (東京・上野恩賜公園内)
作家が「コミュニケーション」をテーマとし制作した作品を持ち寄る。公園に決められた期間、決められた時間帯に毎日違う配置で展示する。展示場に訪れる人々(通行人・ホームレス・管理者など)と話しながら、食べながら、飲みながら、あるいは遊びながら決められた時間帯を共に過ごす。
儀式
儀式の手順を重ねるごとに緊張を増す
緊張を持続することで精神を集中させていく
集中することで頭を絞り素直になる
自分の中に素直さを見出すための儀式がある
作品を制作していることも儀式の一つなのかもしれない。
『儀式』(1500×1200×1200)mm
ミクストメディア(綿布・紙・木・アクリル・鉄・紐・樹脂)
光を演出する雲のためのプロジェクトⅡ
台風が接近している晴天に風だけがやたらと強く吹く日がある。そんな日の夕方に雨を降らせない雲が、赤黄色くなりながら早い速度で低く走っている。そんな光景に、憧れのヒーローを目の前で見ているような痛快さを感じたことがある。自然は、いつどこで何を見せてくれるのか分からないし、その大半を私たちは気がつかないでいる。知ろうともしない。
地に舞台があり
空にも舞台がある
日の光を雲が演出し
風が動き、人の眼が脚色する
ただ知ることで終わるのではなく
参加しようとする意識に
体験することの意味がある
静かにしている桜島の上空に雷雲が流れてきた。火口に吸い込まれるように次々と雷が落ちていく。いつも人間には傲慢な桜島が、雷雲にいたぶられているようにさえ感じられた。何分くらい経ったころだろうか、時折雷を落とす雷雲に向かって桜島が、轟音を響かせ突然噴煙を吹き上げた。雷雲は左右に吹き避けられ、寂しく雷を落としながら桜島の両端へと流されていく。すごかった。誇らしかった。今でもその出来事に居合わせたことを幸福に思い、頭に浮かぶたび、その時の痛快さが蘇る。
『光を演出する雲のためのプロジェクトⅡ』(H1818×W2272×L800)mm
共存
空は青い。空はいつも頭の上に広がっている。空はいつでも見ることことができる。そのことが、いつまで当たり前でいられるのか。
海は青い。海はいつも生きている。海はいつまでも見ることができる。そのことがいつまで当たり前でいられるのか。
そばにいれば欲がでる
離れていると伝わらない
一緒に生きるリズムが合わない
そばにいることを気づかない
離れていくと落ち着かない
必要だから影響し合う
共に生きるからリズムが生まれる
リズムが合うから共存できる
いなければ動けない
必要だからいる
無いものを気がついたときに目覚める
共にいるから何かが生まれる
もとめ合うもの、もとめるもの
見つけ出すもの、見つけるもの
バランスを保つために必要な相手がいる
1991年7/8~7/13 初個展 文田聖二展『管理』 画廊ギャラリーQ(東京・銀座)
寄り添う自然
植物には、強風に耐えるしなやかな草花、高く伸びる木々、触ると開く不思議な葉、虫を呼び寄せる鮮やかな花びらなど、さまざまな形や特徴の違いがあります。それぞれの特徴は、その地の環境や季節が大きく影響しています。日本の「桜」やハワイの「プルメリア」などその国を象徴する植物があるのも、国によって違う環境や季節が、独自の植物を生み出していった結果といえるでしょう。人間と同じように、植物も長い時間をかけてその地に適した進化をとげていったのです。
深い森の中でうっそうと咲き乱れている植物は、雑多なように見えて実は絶妙なバランスを保ちながら共生しています。冬に咲く花、日光を浴びるために高く伸びる木々、日陰でも生き続けるコケ類……。それぞれの植物が与えられた環境の中で生き残るために順応してきた結果、それぞれの形や特徴、性質を持ち備えていったのです。これらさまざまな植物が、その特性を生かし枯かれては咲さくといった再生を繰り返しながら形成されている森では、季節ごとに咲く草花が入れ替かわります。そして常に生命感があふれるいろいろな自然の美しさを見せて、人に季節感を味あわせてくれるのです。
何を望むのか、何がそうさせるのか。生きるために何が必要なのか、何がそうさせるのか。あたり前のことが、あたり前であって欲しいことがある。
コンクリートに泳ぐ魚
活動する流れ
生まれてきた流れ
何か期待できる流れ
夢が叶う流れ
だから群がる魚
コンクリートが馴染んでも馴染まなくても
泳ぐ魚
養われたもの
自然と身についた力
やむおえなくついた力
生きるために磨いた力
力によって変わっていった姿
気がついたから身についた力
大切にしているから残った力
もっていても力にならないもの
もっているもので変わっていく姿
自分だけのものに見えていた
他人とは違うと思っていた
それでいいと感じるときがある、そう信じた方が自然と思えることがある
2002年9月 藝祭 東京藝術大学 大学院 壁画研究室 壁画廊(東京・上野恩賜公園内)
群れ
何かがありそうな群がある
群がることでできることがある
何もできない群がある
群れに入ることで目的を亡くすことがある
弱いから外れる
敏感だから外れていく
外れたものが集い、またつくるものがある
泳がされる魚
知らないうちに忘れている
やりたいことが消えていく
置き換えることで安心していく
選ぶ前に与えられてしまう
いいと言われるままに良いと思い、わるいと言われるままにわるいと思う
泳いでいく方向がどこであろうが
泳がされる魚
「平成藝大生日記」シリーズ。現代社会の抱えている問題の中で”コミュニケーション”を視点としたテーマで綴った詩、文章をもとに制作した作品。画一化されていく状況の中でいかに個々を主張し他者との関係を保っていけるのか、制作を通じて考えようとしたシリーズ。
立ち入った話
輝くものの意図する気韻 取り残された光陰の遺跡
ついていきたい魅力の種 取り残された宝の威力
額の穴を開いてもらい 体の中に入ってもらい
体がムズムズ求めれば 気持ちだったらズルズル動く
残酷だけど嘘がない いずれはばれる嘘をつけない
欲をかいた理想の枠に閉じ込められる 迷ったときに無くして磨かれ捨てられて
いつも報われない空虚のままでいる 探せないないままの安定に潜んでいる
「よし」とポンと抜けて跳べ、もっと広い森で怪我をしよう
川の向こうに見たいものは 他人のふりをした顔 声 顔
渡ってみたい気にさせる 川の向こうの顔 声 顔
受け止められないことがいい 器がないから繰り返し 繰り返し
弾け飛ばされた後に予測のつかない崖っぷち
感じるあなたと話しがしたい 知ってるあなたと絡んでいるのに
言葉の威力を知ったとき 消えて隠れる言葉の泉 他人の前では理屈にすぎず
悪事を知らない言動に 言葉に怯えることがあり
両親を知らない行動で 言葉に吐けないことがあり
言葉で壊れる罪である
素直な水に沈めて話して 波紋の光が途切れて溶ける
夢で起きて落ちていく
夢に落ち込み幻覚の中で目覚めてしまう
早く目を開き、足元を眺めて転べ
その後に知ってるあなたと話しをしよう
『立ち入った話』 1997年9月 東京藝術大学 壁画研究室 壁画廊(取手校地・茨城)
プライベートルーム
独りこもってみても 群れに依存する
蔦の絆を避け 外を伝う流水に映った顔を凝視する
妄想の勇気で未熟な力をさらけ出す
憧れに焦がれて、落とし穴を覗く前に落ちていく
よじ登る夢を見て動かない 前向きな幻想を見て動かない
独りで転げ落ち、もがきもできずに滑り落ち
知る前の落とし穴 他人が気にする理由はなく、気にかけられる者でもなく
独りこもって仕事をするため、妄想の力にすがってしまったそのあげく
独りぼっちで落ちていく
「何度覚めても夢の中で、手を尽くしても夢の話で終わってしまう」
星があがって暮れる屋根 何も進まず繰り返す
「そうやって寝てなさい」
そんな者を起こしてあげたのは縁の深いしがらみだった、ずっと待ってた群れだった
黒板パネル(H700×L50×W2300)mm 壁紙・絵日記・空き缶・人形・チョーク・鉄
表層の毒
覆っている表皮に 眩感の毒がある
触れるのではなく
侵触される間を与えずに
さす
『PORTES OUVERTES AU JAPON 1995 in PARIS』
ミクストメディア(テディ ベアー・布テープ・木・アクリル・壁紙etc)
平等であるということ
平等であること 平等にすること
そうすべきでない事、ない時
自らが拡げる、心裏の森
森の奥深くに入り込み、迷い込んだ時に
出会いましょう
森を去った時に
話しましょう
それぞれが、異なるしがらみを選択をし、
また、それぞれのしがらみから派生することを
それぞれが背負っていく
そんなことを一まとめにして
平等であることを感じます
『PORTES OUVERTES AU JAPON 1995 in PARIS』
ミクストメディア(テディ ベアー・布テープ・木・アクリル・壁紙etc)
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