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  • 執筆者の写真sfumita7

画狂老人 北斎の望み

更新日:2023年12月31日




富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』 1831-33年(天保2-4年)頃  葛飾北斎



世界的にも著名な画家 葛飾北斎は「70歳までに描いたものは取るに足らない」と、晩年に掛けた信念、衰えない絵への執着心を示していました。様々な表情の富士山を描いた代表作《冨嶽三十六景》は、北斎がじつに70代になってから制作されたものです。このシリーズは、当時に熱狂的な富士山信仰もあったことで浮世絵史上屈指のベストセラーとなりました。

富嶽三十六景『凱風快晴』 1832年  葛飾北斎


その後10年ほど浮世絵の発表を続けますが、最晩年はまた絵手本と肉筆画、いわゆる挿絵画家としても活躍しました。それからも自ら「画狂老人」と名乗り、88歳で没するまで創作意欲は衰えることはありませんでした。



北斎が6歳のときに江戸で浮世絵版画の多色摺の技術が完成し、華やかな織物に例えられ「錦絵」と呼ばれました。絵草紙屋の店頭に並んだ錦絵は、幼い北斎にとって心を躍らせる最新鋭のマスメディアだったわけです。10代の頃に北斎は木版画の彫師として修行を積み、やがて浮世絵師に弟子入りし、おもに役者絵を描いていました。90年におよぶ北斎の人生は、物心ついて間もない頃から、浮世絵版画の歴史とともにあった”錦絵の申し子“と言えます。


  88歳と、当時では長命だった葛飾北斎ですが、没するまでに、当時のペンネームともいえる号を30回も改めました。主な号として挙げられているものだけでも、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」の6つ。晩年に至っては「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」というユニークなペンネームを名乗っています。葛飾北斎が次々と改号していた理由には、号を弟子に譲ることで収入を得ていたという説もありますが、実際、著名な「北斎」の号も弟子に譲っていたようです。また、自らの才能をオープンにすることをよしとしない性格だったからという説もみられます。


『東洲斎写楽』



 35歳の頃、北斎は「俵屋宗理」と名乗ります。琳派の祖とされる俵屋宗達(生没年未詳)との関係性をほのめかす名前ですが、詳しいことはわかっていません。


『風神雷神図屏風』 俵屋宗達



行儀作法を知らず挨拶はしない、金銭に無頓着、身なりには気を遣わない、歩く時に呪文を唱えていたなど、葛飾北斎の奇人エピソードは多々あります。改号30回に加え、引っ越しは93回したともいわれている葛飾北斎。たび重なる引っ越しの理由もふるっていて、掃除をしないので、部屋が汚れるたびに引っ越していたとも言われています。また、出来の悪い着物を身に着けて、他人から「田舎者」と言われることを密かに喜ぶような気性だったという話もあります。


『雪中虎図』1849年 葛飾北斎


絵を描くことに関して、非常にストイックで、いくつになっても探求心が衰えることのなかった葛飾北斎。「私は73歳でようやくあらゆる造形をいくらか知った。90歳で絵の奥義を極め、100歳で神の域に達し、110歳ではひと筆ごとに生命を宿らせることができるはず」と、死の数ヶ月前に描いたという《雪中虎図》は、虎の質感や肢体が独特の雰囲気で老いてなお上を目指す北斎の心のようです。


今際の際、「天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら、いや、あと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう」と言ったと伝えられています。



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