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  • 執筆者の写真sfumita7

他人に左右されない生き方

更新日:1月19日



物も事も人によって価値が違う。「こんなことしかできない。こんなものしかもっていない。」 といった自分の勝手な思い込みで価値を下げている。

好きなこと、楽しんでいたこと、続けてやってきたことの価値は 自分が考えている以上に高い。


・放っておけば平凡で代わり映えもしない日々の繰り返しに埋没してしまう日常を

 いかに生気に溢れて楽しみや生きがいを追求する能動的な人生に転機するか

・自分らしく幸せに生きること

・生活をアートとして捉え、他人に左右されない生き方を一つの美意識とする

・転じることが成長、明日がくる限り、常に新しい自分を建立していく

・自分なりに丁寧に生きる



『人は誰でも絵は描ける。ただし自分の見ている程度に描ける。』

『画家のパレットなぞ、何の意味もない。すべては眼できまる』

                    by ピエール=オーギュスト・ルノワール


『ラ・グルヌイエールにて(La balançoire)』 1869年

ピエール=オーギュスト・ルノワール



誰でも造形能力を持っている


1919年 、世界初の本格的デザイン教育機関としてドイツのワイマールに創立された「バウハウス」は、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校です。それまでにもヨーロッパ各地には芸術学校は存在しましたが、それらは全て、ある程度の才能がある人間しか受け入れてなかったのですが、バウハウスは「誰でも造形能力を持っている」ということを前提に芸術教育をカリキュラム化しました。



※バウハウス:ドイツ語で「建築の家」を意味する。

 ・ナチスにより1933年に閉校(14年間 開校)

 ・ヒトラーの美術批評の基準はルネサンス芸術にあり、19世紀後半以降に生じた芸術   のほとんどすべてが彼にとっては「堕落」であった。



それぞれの答えをもつ芸術家


 何か才能や技術がないと創作、表現をすることが出来ないと勘違いをしている方がたくさんいます。絵にしても小説にしても勉強、仕事や遊びにしても大切なのは突き動かす衝動であり、その衝動を誰かに伝えたいという欲求があるということです。だから芸術の本当の魅力は、才能ではなく”強い想い”から浮き彫りになっていく作者自身の生きざまとそこから生まれた独特な表現なのです。


『星月夜』1889年 6月、サン=レミ ファン ゴッホ



 芸術家は十人十色で、それぞれが違った生き方をしています。それだけ生き方にはたくさんの選択肢があるということです。芸術家自身と創造したアート作品は「気質、習慣、思いの強さ、誰かの支え、出会い、環境、…」とさまざまな境遇(組み合わされた条件)の違いによって異なる魅力や特徴、それぞれが唯一無二のものとして構築されたといえます。


 幕末志士の坂本龍馬が『人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。』と語っていたように、アカデミックな美術教育を受けていなくても、誰でも十人十色の自分らしさを見つけて表現すれば芸術家といえるのです。


幕末志士の坂本龍馬



みんなクリエイターになれる


創作は本質に向かうから面白い。本質に触れると楽しい。芸術、芸能、スポーツなどの特殊な分野、職種だけではなく日常的な生活、仕事そのものに創造性が求められてきている。 創造性を意識すると毎日の作業が創作に変わり、やりがいや生きがいを感じられる。



『 パス停留所でお出迎え 』



『 記憶の記録 数分間 ホームシアター 』


 記憶と記録、写真の持つ二つの特性をデジタル技術とインスタレーションによって新しい形で結び付ける。

 私の「記憶をデジタル処理化した場面」数百カットを、指定された場所(展示スペース)に再構築することで、「記録としての空間」を出現させる。

 その画像は、侵食する様に展示スペースの壁面や床を拡充し、過去に存在した「記録の世界」と「現実の風景」を融合する。その様は、無意識に蘇ってきた過去の記憶を日常の意識の中で、無意味にたどってしまう行為に似ている。




『 古河庭園 』



『 隅田川の数分間 』



『 泉 』



『 ローマの広場 』



『 カンポ広場 』





『 エッフェル塔 』



『 ノートルダム 』




『 橋 パリ 』


『 記念碑 』


○ 作品制作について


 デジタルカメラを使用し、視線の跳躍(瞬間移動)に合わせてシャッターをきる。立ち止まった地点からの視野の範囲内で、数百枚のカットを撮影する事になる。撮影されたカットをつなぎ合わせ、「記憶」に忠実に再構築する。再構築された画面には、撮影時の時間の経過、カットごとの観点の情報が含まれる。多数の観点の総合的な情報によって造られる画面は、人間の視覚機能、脳が空間認識するシステムに近い状態で、視覚データ化される事になると考えられる。

 総合的な情報処理の中には、撮影の現場で「五感」によって感じとった感覚も、感情表現(絵画表現で培った色彩感覚や画面構成など)として含まれながら画像処理される。


 この一連の撮影作品は、「写真」というよりは「絵画」に近い感覚で制作(ドローイング)されている。




『 公園散歩 』



『 瓦屋根 』



『 神田祭蔵出し 』



『 神田明神 』



『 都庁 』



『 渋谷センター街の数分間  』



『 新宿三丁目交差点 』




記憶と記録


 旅行で撮影したスナップ写真に落胆する事が多い。例え、仕上がりが美しい写真だとしても違和感がある。記憶に残っている印象とは別物に感じられて、「記録媒体」としては、 納得できたことが少ない。私が絵を描いてきた事で培った感覚も影響しているのか、写真の持つ情報だけでは「記録」として満足できない。ビデオ映像も例外ではない(さながら窓から、外の様子をうかがうような’もどかしさ’’物足りなさ’に似ている)。従来の撮影だけでは、現場で体感した臨場感が写真に反映されにくい。それは、写真に含まれる情報の限界と、人間の五感機能、脳の働きに関する謎に問題が隠されている。

 まず「記憶」は、何から構成されているものなのかを想定してみる。その要素(光、空気、音、時間、感情など)を体感する「現場での情報」と、それに繋がる「過去の情報(脳に貯えられている記録)」とに二分してみる。「思い出」として回想される瞬間に、その前者と後者が、どんな条件(状況)下で、どの様に絡み合ってくるかで”それ”は変異する。全く関係のない情報が、意識とは関係なく結びつく可能性もある。

 どんなに状況を揃えたとしても、違う人間に同じ記憶は存在しない、ひとりの人間の場合、類似する記憶はあったとしても、その状況により厳密には条件が異なるので、思い出すたび全く同じ記憶が蘇ることはあり得ないという事が想像できる。その認識が、日常生活のコミュニケーションにも影響してくる(同じ時間を共有している様で、その出来事のとらえ方で変異する「現実」。それは、類似はしていても違う記憶として認識する方が自然である)。

 記録する事において、写真はどこまで信頼できるのか。もしかしたら画家の卓越した目を持って描かれた絵画に含まれる情報量が、写真の情報を越える事もあるだろう(顔のモンタージュ写真より、幾つかの情報をもとに描かれた似顔絵の方が、参考メディアとして信頼できる様に)。逆に絵画的な表現力を写真制作に導入できたら、より「記憶」に近い「記録するメディア」になるだろう。

 次に、何を記憶し、記録をしていくか。史観は、成功よりも挫折と失敗の場面を、幸よりも不幸を、はるかに多く呈示する。「歴史の幸福なページは空白」、哲学者ヘーゲルが語る様に”社会”を凝視するという事は、未来を切り開くための手がかりをつかむ事なのかもしれない。記録には、歴史には残らない”現実”もある。私しか残せない、残そうとしない個人的な記憶から社会をみてみる。

 「作品制作について」の項目でも記述したが、私の制作のモチベーションは身近な所から見付けている。その事が最も「記憶」として生々しいからである。毎日の生活の中で、習慣としている事を通じて、その変化を敏感に察知する作業は、自分を取り巻く社会を正確に捕らえる「記憶」となると考えている。更にこれから起こりうる社会の有事を洞察し、それに適応する術を「記録」していく。




『 横浜 』



『 明治神宮 夕暮れの数分間  』


『 妻の実家 』



『 静岡 台風前日 』



『 実家 妻の遊び場 』


新しい生活様式への転換をきっかけに自宅や近所、地域のことを見直している。それがとても良い。 ベランダ菜園にはじまり、在住している多摩地区で、狭山丘陵や奥多摩、薬草植物園など、散歩感覚の観光気分を家族で楽しめるスポットが増えてきている。

何よりも家族の中での発見、嬉しい価値変換が起きていることが楽しい。




『 読書 』



『 池 』



『 入口出口 』


明治トンネル(有形文化財)


静岡市と藤枝市の境にまたがる宇津ノ谷峠に日本最初【明治9年(1876)】の銭取りトンネルがあります。家族で峠を歩いてみましたが、高尾山登山のように爽やかで気持ちがよく、時代や時間の感覚がなくなりタイムトラベラーになった感じがしてきます。峠の民家の縁側で日向ぼっこしている置物のようなおばあちゃんの膝で、猫が丸まってたりして、のどかでいい感じでしたよ。午前中がオススメ。日が暮れると怖そう。




『 二人分 』



『 シーソー 』



『 主がいない時間 団地の公園 』



『 小田原漁港 』




『 記憶の記録 数分間 子どもの時空 』




制作コンセプト


 「独りではない」、群集の中の孤立もまた、何かと関係して起こる現象である。

人間も物事も、存在を語るときに’他との関わり’を無視はできない。すべてのものが誕生してからすでに何かに関わっている(もともと繋がっている)。


 混沌とした国、日本。文化や習慣、環境の違う他者との関係を保ちつつ、自分のアイデンティティを保ち続ける事、それから派生する問題は現代社会に於いて

増々難解になり、混沌としてきている。

 様々なコミュニケーション手段(インターネットでの交渉、メールでの意思疎通など)が成立し、その伝達範囲(デジタル開発など)も拡大し続ける現代において、国際交渉に始まり、あらゆる組織、各個人(家族)に至まで自分のアイデンティティを意識すること、更にはそうできる環境を考えていく必要性が高くなってきていると感じている。

 自分に関わる「繋がり」の存在を、意識しなくなった時にとる行動を想像すると恐ろしくもあり、寂しくもある。逆に何かに繋がっていると意識することは、安心に希望に強さ、 優しさに繋がることもある。

 この作品は、その当たり前だが確かな繋がりを再確認し、また多数の他者と共通認識できるために具現化(画像として視覚化)することを目的とし制作されたものである。



『 マンション住い 』


『 2LDK生活 』



『 画学生 』



『 画学生のアトリエ 』



『 書初め 』



『 妻の料理 』


 ただただ妻が造ってくれる料理が好きで美味しくて嬉しくて満足できて、毎回、試行錯誤している作品が食べてなくなっていくのがもったいなくて3年間、家ご飯を記録していた。結果的に太ったけど後悔はない。




『 居場所 』


 ほぼ光の中。犬や猫たちは、ココしかない!といった場所を見つけるのが上手いですよね。気がつくと最高の居場所に移動してはくつろいでいる。




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