アートとサイエンス
2016年、「レンブラントの新作」が公開されました。とはいっても、レンブラントが描いた作品が新たに発見されたとか、もちろんレンブラントが現世によみがえって新作を描いたわけでもありません。「人工知能(AI)」がレンブラント風の絵をつくったのです。
レンブラント風というと、レンブラントの画風に似せて描いただけと思うかもしれませんが、そうではなく、300点以上あるレンブラントの作品を人工知能が分析し、色づかいや筆跡、絵の具の厚みといったレンブラントの癖を学習して「レンブラントだったらこう描く」という絵を描きあげたのです。
このエピソードからわかるように、アートはサイエンスでもあります。
人工知能が描いた「レンブラントの新作」
原始時代、人は生きるために狩猟を行う必要がありました。そのために道具をつくり、儀式を行い、知恵を共有します。その痕跡が壁画です。
『ショーヴェ壁画』3万2千年前
しかし狩猟はリスクが高いサバイバル術であるという問題があり、それを解決する手段として農耕が編み出されます。すると今度は「土地」に執着するようになり、部族間で争いが起こります。
やがて部族同士をまとめ上げるために王が必要となり、王がその手段として宗教や法律を利用したことで宗教美術が生まれました。
『キリストの哀悼 The Mourning of Christ』 1305年 ジョット・ディ・ボンドーネ
『最後の審判』 1536-1541年 ミケランジェロ・ブオナローティ
システィーナ礼拝堂
このように歴史をひもとくと、人が「問題を解決する」ときには必ずアートが生まれています。近代社会も同じです。
産業革命によって工場が乱立した都市部では、労働者は過酷な環境での生活を強いられました。すると人々は自我や自由を求めて立ち上がり、ロマン主義絵画が庶民の間で広がります。
『民衆を導く自由の女神』 1830年 ウジェーヌ・ドラクロワ
また、写真技術の発達によって絵画の役割が少なくなるや、画家たちは新しいアートを編み出し、今度はそのアートが人々の心を打ち、社会に大きな影響をおよぼすようにもなるのです。
『オランピア』1863年 エドゥアール・マネ
アートには「影響」という意味があります。そして問題を解決する手段を「サイエンス」といいます。
『ゲルニカ』1937年 パブロ・ピカソ
AIが膨大なアートを学んでレンブラントの新作を描いたのは、「レンブラントの新作を見たい !」という問題を解決した、文字通りサイエンスですね。
アートを学ぶということは、未来を生きるためのサイエンスにつながるのです。
西洋絵画に現れた日本文化
『モナ・リザ』1503 - 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
18世紀の西洋絵画も描き方や色づかい、描く題材までもセオリーに縛られていました。
そんな中、陶器などの日本文化が、西洋とはまったく違う新鮮なアートとして注目されていました。その陶器を梱包していた紙が「浮世絵 (版画)」だったのです。
『ビードロを吹く女』1790-91年 喜多川歌麿
その頃の日本は、江戸時代。浮世絵は大衆文化で芸術的価値は高くありませんでした。しかし西洋は浮世絵に描かれている日常の風情、艶あでやかな着物、鮮やかな色づかい、自由な表現すべてに衝撃を受けたのです。
こうしてパリを中心にヨーロッパに広まったジャポニズムはゴッホなど印象派の画家たちに多大な影響を与えていきます。
浮世絵がなかったら、自由な色彩で開放的な表現をした印象派は生まれなかったかもしれません。
◎浮世絵
歌川広重 『名所江戸百景 亀戸梅屋敷 のぞき見る』1857年
◎ジャポニズム
フィンセント・ファン・ゴッホ 『ジャポネズリー:梅の開花(広重を模して)』1857年
上が浮世絵で、下がそれに影響されたゴッホの作品。
画面の下半分を邪魔するかのように目の前に梅の枝があるにも関わらず、圧迫感はない。むしろ奥の梅木や梅を楽しむ人々に目が行くため、梅屋敷の広さを感じます。
こういった西洋美術とはまったく異なる構図の描き方、そして景色の正確さや写実性よりも「どう描くか」を追求した浮世絵は印象派の画家たちに大きなインパクトを与えました。
現代に伝わるモザイク技法
モザイク画というと中世時代の宗教壁画のイメージが強いですが、その起源は、シュメール時代の神殿のモザイクだといわれています。
最初は、建築物の飾りつけとして利用されたのですね。そこからテッセラとなる素材の種類や技法を進化させながらローマ帝国全土に広がっていきました。
『随臣を従えたユスティニアヌス帝』547年
ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂のモザイク画
モザイク技法の発展は、イスラム文化なしには語れません。聖像崇拝を否定しているイスラム教では、幾何学模様をつくるのに適したモザイク技法が発展しやすかったのです。
イスラム教徒によってヨーロッパに広まり、イタリアでは中世時代の教会に宗教画としてモザイクが数多く制作されました。しかしその後、見るものを楽しませる表現や繊細な描写が必要となり、フレスコ壁画が好まれるようになっていきます。
『最後の審判』ミケランジェロ・ブオナローティ システィーナ礼拝堂
ちなみにルネサンスの時代にはフレスコ壁画や油絵が主流になったため、モザイク画は下火になりますが、時を経て豪華な装飾が好まれるようになった19世紀のアールヌーボー時代に再びモザイクが流行します。
現在でもイタリアではモザイク建築やモザイク装飾を使った小物などが人気です。
『アールヌーボー モザイク建築』
『モザイク装飾』 アルフォンス・マリア・ミュシャ
モザイク画をつくるには、構図を考えてから、色ごとのテッセラを大量に用意する必要があり、それを1つ1つはめていかなければなりません。当時の人々にとっても非常に根気のいる作業だったと想像できます。
それでも、素材があれば手軽につくれることもあり、いまでは趣味としても楽しめるようになっています。おもちゃのビーズを敷き詰めて模様をつくる遊びにも、モザイクの技法が受け継がれているのかもしれませんね。
ルネサンスと油絵と日本人の少年
『アルノルフィニ夫妻の肖像』 1434年 ヤン=ファン=アイク
漆喰が乾く前に描かなければならないフレスコ画は、時間との戦いでした。しかし油絵の具は、油で溶かしながら使うので、絵の具をキャンバスの上で混ぜ合わせたり、重ねて塗ったりと、時間をかけて絵を描くことができます。
油絵の具の特性を活かして、厚く塗り重ねたり、光沢をつくり出したり、繊細かつ大胆な表現が可能となったのです。
描く場所が広がったことも重要なポイントです。モザイク技法やフレスコ技法だと、壁面にしか描けないという大きな制約がありました。油絵の具であれば、木のパネルや布のキャンバスでも描けるため作業場所の自由度が高まったのです。
油絵の具をつかった油彩技法は、ルネサンス期以降の定番となりました。自由なサイズの絵が描けるようになったため、画家のもとには肖像画の依頼が多く舞い込むようになります。
『モナ・リザ』1503 - 1505 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
肖像画といえば、ルネサンス期に肖像画を描いてもらった日本人がいることをご存知でしょうか。
彼の名前は伊東マンショ。
織田信長が天下統一していた安土桃山時代に日本からローマに派遣された少年使節団の1人です。使節団はローマ以外も巡り、その地その地で歓迎されました。
伊東の肖像画を画家に依頼したのは、ベネツィア共和国の元老院でした。依頼されたのはドメニコ・ティントレット(1560~1635年)という肖像画家として有能な画家でした。
『伊東マンショの肖像画』 1585年 ドメニコ・ティントレット
「ルネサンス」と聞くと日本人としては遠い世界の話のように感じる人が多いかもしれませんが、当時14歳だった日本人の少年が肖像画を描いてもらっていることを想像すると、少しは身近に感じられるのではないでしょうか。
著書
“アートのロジックを読み解く『西洋美術の楽しみ方』より
Commentaires