アートストーリーでイメージを膨らませると脳のストレッチになる。
キリスト教美術のはじまり
『最後の晩餐』 中世時代(12世紀)
分かりやすく怪しい”出オチ”のユダ
12人の弟子たちとの最後の晩餐で、キリストがいきなり「この中に裏切り者がいる」と告げた。その瞬間、弟子たちが驚き動揺している中で、あまりにも怪しい表情で不審な行動をしているユダが、単純明快なモザイク技法で表現されている。
この数百年後、ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチが、フレスコ技法により、12人の弟子のそれぞれのキャラクターや複雑な心情を身体の動き(ジェスチャー)で表現した。
『最後の晩餐』1495-97年(ルネサンス時代) レオナルド・ダ・ヴィンチ
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 食堂
アートの暗黒時代:中世時代(東ローマ帝国)
海賊や山賊がのさばるなど無法地帯となっていた中世時代(東ローマ帝国)の世を宗教の規律(神の教え)で統制した。
アウグストゥス帝
『地中海を”ゆりかご”に育った西洋美術』
『トラヤヌス記念碑』114年頃
『コロッセウム』
※ローマ帝国の時代、80年のティトウス帝の時に完成した円形闘技場。
『コロッセウム内部』
「全ての道はローマに通じる」
偉大なりしローマは、華美な装飾を排し、実用本位の都市デザインで世界征服を目指した。”美術”よりは”様式”の革新。
『古代ローマ遺跡』
古代ローマ人の最大の業績『土木・建築 = 道路・水道・公衆浴場』
ヨーロッパ 中世 ロマネスク、ゴシック、ビザンチン
『随臣を従えたユスティニアヌス帝』 547年頃
ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂のモザイク画
『キリストと皇帝コンスタンティノス9世・ゾエ夫妻』
言葉の理解や文字が読めない者たちが多く識字率が低かった時代に広く布教していくためにアート(絵=視覚情報)を利用した。
『受胎告知』1200年頃
時代によってアートの目的とモチベーションは違うところにある
原始人たちは、住いの壁に生きていくためのサバイバル生活を描いた。
古代ギリシャは“感動(エロス)、中世は感情(宗教)、ルネサンスは人間(現実)を表現した。バロックは権力、ロマン主義では革命。そして、印象派から個人的なタイムラインを描き出した。
中世(キリスト教美術)時代は、感情(愛情、罪、罰、苦悩など)を表現している。だから中世時代の絵画は重たい。
昔の作品は、古典って言われるけど、その当時は最先端の技術で制作されてた。
教会は、建築技術、ステンドグラス、フレスコ技法など その時代の最新技術を使い、庶民たちを空間的に圧倒し、神の存在を信じさせた。
今でいうアミューズメントパークや先端技術を使った魅惑のイベント空間である。
『アヤ・ソフィア(内部)』
宗教のためだけに利用された美の暗黒時代。教会堂建築は最高の知識・技術・芸術が集約されている。クリエイターたちがストレスを受け入れて、希望を見出した時代。
美の救世主ジョット・ディ・ボンドーネ
『キリストの哀悼』1305年 ジョット・ディ・ボンドーネ
大きな流れに沿いながらも信じる方向性を示していく。ただ反発しても結果は出せない。アートの暗黒時代”ビザンチン”。宗教のために美術が利用された時代から、人間本来の姿に関心を向けていった”ルネサンス”に繋げた画家ジョット・ディ・ボンドーネの功績は大きい。
『エジプトへの逃避』1315年-1320年 ジョット・ディ・ボンドーネ
描いた絵が大理石に代わるフレスコ画
石灰と川砂を混ぜたモルタルが乾く前に描くので表面ににじみ出た石灰が被膜となり大理石化するので色が退色しにくくフレッシュ。 だから、語源はイタリア語の "fresco" (新しい、新鮮な)という意味。
『システィーナ礼拝堂』 バチカン
どの色が使われているかで西洋絵画の読み解きができる
西洋の宗教絵画の色彩ルール
赤=慈愛・殉教・権力
黄=異端者・邪悪さ
白=純潔・無垢
黒=禁欲・死
緑=希望・恋
青=誠実さ・悲しみ
多色、縞=社会の規範を乱す者
宗教絵画
西洋絵画のルール
羊=純真・神への犠牲 鳩=清純さや犠牲の象徴・平和や愛を表わす
牛=生け贄・人類の犠牲となったイエスを象徴する
白鳥=音楽や愛を象徴
ユリ=聖母マリアの純潔を象徴する花
バラ=愛と美、聖母マリアの純潔の象徴
ブドウ=イエスの生命の象徴、血を表す
サクランボ=イエスの受難と聖餐(キリスト教の儀式:最後の晩餐など)を象徴
ドラゴン=災いをもたらす邪悪な存在。異教徒
兎=多産と色欲。聖母マリアの足元に描かれる時は色欲が純潔に打ち負かされることを示す。
『うさぎの聖母』1530年頃 ティツィアーノ
『宗教画』
14〜16世紀 ルネサンス期
ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ。油絵具の誕生。活版印刷術、羅針盤、火薬の三大発明。コロンブス、マゼラン。
ルネサンス3巨匠
社交的で社交界の花のラファエロは、宮廷、財閥らパトロンに引っぱりだこのナイスガイ。ミケランジェロはこもりがちな性格で一途に仕事をするタイプ。 ダ・ヴィンチはパトロンからの仕事も中途半端で完成させず、二人とは正反対。
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年〜1519年)
ルネッサンス期のミケランジェロ、ラファエロらと三代巨匠(芸術家)の一人。名画「最後の晩餐」「モナ・リザ」などで誰もが知っている画家であるが、それは彼の単なる一面であり実は、環境の観察に膨大な時間を費やしていた科学者でもある。
トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像(1513年 1515年頃)
『ウィトルウィウス的人体図』 1485年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ
アカデミア美術館(ヴェネツィア)
レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿
ダ・ヴィンチは、最先端の技術・技法と新しい視点・考え方で 芸術、解剖学、医学、自然科学、発明…様々な分野でイノベーションを起こした。
『子宮内の胎児が描かれた手稿』 1510年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ
ロイヤル・コレクション(ウィンザー城)
レオナルドがチェーザレ・ボルジアの命令で制作した、非常に精密なイーモラの地図
レオナルド・ダ・ヴィンチは、 凡庸な人間は「注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、味わうことなく食べ、体を意識せずに動き、香りに気づくことなく呼吸し、考えずに歩いている」と嘆き、あらゆる楽しみの根底には感覚的知性を磨くといった真面目な目的があると提唱していた。
『最後の晩餐』1495-97年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
消失点であるキリストのこめかみには穴が空いている。ダ・ヴィンチは、この穴からひもを引っ張って作図した。ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれている遠近法(一点透視図法)を完璧に実証している絵。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂
名画『モナ・リザ』は技法のデパート
顔や右手に比べて左手が以上にでかい。一番手前のインパクトを出すための対比。背景は輪郭線を使わない空気遠近法。頭に薄いベールをまとうことで輪郭線をぼかし表情を際立たせている。“重ね”の効果も使っている。
『モナ・リザ』1503 - 1505 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
男色を好んだミケランジェロ
女性像の作品でも男性モデルを描いたデッサンをもとに制作していた。 そのため女神をテーマにした作品でも筋肉質でたくましく感じられる。
『リビヤの巫女のための習作』1510年頃
『人体スケッチ』
顔がでかいダヴィデ像
遠近法は絵画だけの技法ではない。巨匠ミケランジェロ作 ダヴィデ像。 見上げる位置にセッティングすることを計算し、胴体に対して顔を大きく首を長く制作し下から見た時にプロポーションが自然にみえるように造られている。
だから彼の造ったダビデ像を正面から見ると胴体に対して、不自然に顔が大きく腕や首が長い。
『ダビデ像』 1501-1504年イタリア
目がハートマークの『ダビデ像』 ※割礼・キリスト教の象徴
科学者の観察眼
科学者ガリレオ・ガリレイが低倍率の望遠鏡で月のクレーター(凸凹)を発見できたのは、彼が水彩画を描くことで陰影により奥行きや立体を表現していく観察眼を身につけていたから。
『月の水彩画』 ガリレオ・ガリレイ
芸術的な素養としての美意識を磨いている人はサイエンスの領域でも高い知的パフォーマンスを上げている。
細密描写が得意な画家デューラー
自分は芸術界の救世主!といわんばかりに自画像にイエス・キリストのテイストを盛り込んで描いている。絵画は写真のように見たままを写すのではなく様々な情報をブレンドして描かれている。絵は情報伝達ツール。
『自画像』 1500年 アルブレヒト・デューラー
言語を分けられたバベルの塔
ブリューゲルの絵はいつも壮大で、日常と幻想のハイブリットなので速攻でわくわくする。この絵を初めて観たのは小学校の教科書。マンガの『バビル2世』が大好きだったので親近感もあったせいか一目でその世界観の虜にされた。
『バベルの塔』ブリューゲル
16〜17世紀 バロック・ロココ時代
絶対王政。ルーベンス、レンブラント、フェルメール。デカダンス(芸術至上主義)。
西洋では日が暮れてもなかなか明かりをつけない。薄明りの中で過ごす時間が多い人ほど明暗の感度が敏感になる。東洋画の線へのこだわりに対し、西洋画は光と影にこだわり、その表現に幅がある。
絵で光と影の演出革命を起こしたカラバッジョ。
17歳の時天涯孤独の身となりローマで絵の修業をするが賭け事の口論で殺人を犯す。絵の才能で免罪されるが激しい気性のため罪を繰り返す。逃亡中も名作を描き37歳で亡くなる。絵も人生も劇的。
『聖マタイの召命』1600年 カラヴァッジョ
人を殺め逃亡しながらも絵を描き、その才能のおかげで免罪されてもその気性の荒さからまた罪を犯し、逃亡生活の中で歴史に残る作品を描き続けた画家。遺作と同様に斬首刑で幕を閉じた人生も作品も劇的なカラバッジョ。
『洗礼者聖ヨハネの斬首』 1608年 カラヴァッジオ
バロック絵画は”ビジュアル インパクト”のルーツ
『いびつなな真珠』ともいわれるバロック作品は、誇張した表現、劇的な構図、歓喜するテーマなど現代のハリウッド映画など各メディアのお手本になっている。
古典絵画の中に現代も必要とされているプレゼンテーションのスキル要素、ノウハウが盛りだくさん。名画はその当時のヒット広告。壁画や古典絵画は、遠目で際立つ看板や広告の原点。インパクトの出し方、人の心のつかみ方など研究されている。
『聖母被昇天』1625年 - 1626年 ピーテル・パウル・ルーベンス
バロック絵画は、キリスト教布教のための大看板 広告だからインパクトを持たせるためにビジュアル技法が研究されていった。映画の3D化と同じ誇張と歓喜。バロック絵画ってその当時の最先端技法を使った広告塔、現代のハリウッド映画のようなもの。
『マリー・ド・メディシスの生涯:マリーのマルセイユ到着』 1622-25年 ルーベンス
名画やヒット商品は制作者の提案がユーザーに伝わるだけではなく、制作者の思いがユーザーの思いに交ざり合い各ユーザー個々の物語として広がっていく。ルーベンスのようなヒットメーカーの【デザイナー】は思いを共感させるコミュニケーションの達人。
バロック絵画の巨匠ルーベンスはコミュニケーションの達人であり、優秀な外交員でもあった。現代でいえば売れっ子デザイナーといえる彼を悩ましていた病は痛風。王侯並みの生活が原因だったのか贅沢な晩餐会などの付き合いの数も多かったのだろう。
バロック絵画の巨匠レンブラントは、この作品がきっかけで落ち目になった。 バロック時代、画家はクライアントの依頼に忠実なデザイナーだった。
『パレットと絵筆をもつ自画像』 1662年 レンブラント・ファン・レイン
集団肖像画『夜警』は、勝手にストーリーをつくられて不公平だといった理由で依頼者たちに訴えられた。
『フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)』1642年 レンブラント
※従来の一般的な集団肖像画
『デルフトのファン・デル・メール博士の解剖講義』ミヒール・ファン・ミーレフェルト
『テュルプ博士の解剖学講義』 1632年 レンブラント・ファン・レイン
クリエイターは一人の力だけで仕事をしない。
傲慢さで力を封じ込めないように人との関わりの中で揉まれながら探求し成長し続けるから活力と幸福感が持続する。
バロック絵画の巨匠レンブラントは不運が続き、一人閉じこもることで成長を止めていった。
『聖パウロに扮した自画像』1662年 レンブラント・ファン・レイン
バロック主義は、”ルーベンスの画面構成”と”レンブラントのストーリー性”といった2大巨匠の絵画が現代のハリウッド映画を思わせる誇張と歓喜の原点といえる。
人生の寓意画。17世紀 バロック時代の静物画
この時代の静物画は、物の意味(寓意)の要素が濃く、人生の寓意画として描かれている。
『寓意画』
リュートは聴覚、パンは味覚、巾着は触覚、花は嗅覚、鏡は視覚、それぞれ五感を象徴して描かれている。
肖像画とは写真のように写し取ることが目的ではなく、その「人物」を象徴する情報を組み合わせ、描き伝えること。収集する情報の選択と整理をするときに作者の視点、解釈が加味される。
『教皇イノケンティウス十世 』 1650年 ディエゴ・ベラスケス
『白い服の王女マルガリータータ王女』5歳 1656年 ディエゴ・ベラスケス
『女官たち』ディエゴ・ベラスケス
王女の遊び相手の道化に踏まれても我慢している忠実を表す犬は、宮廷画家ベラスケス自身。画面奥の鏡に王女の部屋に入ってきた王が映っている。
構図が、高い天井などの画面の上半分まで背景を入れたり、画面奥まで人物を交互に配置するなど、絵の中の空間に取り込んでいくように計算されている。
画面の外にいる王とこの絵の前にいる鑑賞者を同じ目線に置き、一緒に王女を見守っているような錯覚を起こさせている。
宮廷画家 ディエゴ・ベラスケス『自画像』
ニュートンが光によって色が見えることを発見した
大半の人々はリンゴが地面に向かって落ちることも闇で色が認識できないことも疑問に思わないで過ごしていた。ニュートンが万有引力や光によって色がみえることに気づくまで追求することはなかった。
18〜19世紀 ロマン主義
ドラクロア、産業革命、フランス革命。線路、機関車の発明。
ロマン主義の「ロマン」とはロマンティックではなく「ローマ帝国の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」 という「ローマン(ローマの人)」といった意味。
この時代は絶対王政が終わり産業革命が起こり、民衆が力を持ってきた。
絶対王政が終わり産業革命で民衆が力を持ってきた時代、ロマン主義が起こった 。 ロマン主義のドラクロアなど産業革命で庶民が力を持ち始めた活気を感じる。
『民衆を導く自由の女神』 1830年 ウジェーヌ・ドラクロワ
ウジェーヌ・ドラクロワ
ヨーロッパでロマン主義と産業革命が18世紀に起こって、 絶対王政から市民が解放されたとはいっても庶民の生活は劣悪だった。大企業は潤っても都市で働く庶民の生活は変わらず貧困で、平均寿命は15年(古代エジプトより短い)だった。
シェイクスピアの戯曲に登場する「オフィーリア」が描かれた絵
実は絵の背景に色々な意味が込められています。そう思ってもう一度、絵を観ると今までと違った感覚で捉える事ができます。
背景に描写される草花には象徴的な意味が込められている。
『オフィーリア』1851年-1852年 ジョン・エヴァレット・ミレー
ヤナギは見捨てられた愛、イラクサは苦悩、ヒナギクは無垢、パンジーは愛の虚しさ、首飾りのスミレは誠実・純潔・夭折(ようせつ:若死に)、ケシの花は死を意味している。
バルビゾン派と呼ばれる画家たち
都会から田舎へはじき出されたのではない。 自ら都会の下らない権威や醜い争いから離れ、 人間本来の生き方を正しく見直そうとした。
『落穂拾い』1857年 ジャン=フランソワ・ミレー
『種まく人』1850年 ジャン=フランソワ・ミレー
印象派の父といわれる画家マネ
スキャンダルをまねいた作品『オリンピア』。新しい視点の作品、開発、考え方は、クリエイターの思惑、思いとは違ったものとして誤解されてしまうことがある。
『オランピア』1863年 エドゥアール・マネ
エドゥアール・マネ
19世紀 印象派の時代
その時代の発明・発展と美術の展開との関連性は強い。チューブ入り油絵具、写真技術、電球、電話の発明。 電気で明るく照らされたアトリエ。絵具チューブをもって、野外で油絵が描けるようになり色も輝きだした。
『ボートの上で写生する』1874年 エドゥアール・マネ
19世紀後半 印象派の時代
モネ、ドガ、ルノアール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン。 チューブ入り油絵具、写真技術、電球、電話の発明。
画家の失業。 印象派時代、映像(写真)の発展により画家が失業していく。クライアントを失った画家たちは自分が描きたいものを追求し始める。 絵具チューブの開発で野外などどこでも描けるようになり描く題材も日常や家族、友達の姿を描いている。
『散歩、日傘をさす女性』1875年 クロード・モネ
バロック、ロマン主義時代の威圧的で重厚な絵画と比べて 印象派画家たちの絵画はいきなり軽やかに輝きだす。これはチューブ入り絵具が開発され、暗く閉鎖された工房やアトリエから解放されて、光に満ちた野外へ飛び出していたこともその理由の一つ。 この発明が、輝くような色使いをする印象派の画家たちを生んだといってもいい。
『ラ・グルヌイエールにて(La balançoire)』1869年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
19世紀に写真が発明され、それまで依頼されてきた肖像画、風景画などの仕事が減少し、印象派の画家たちは、失業していった。いわゆる宝の持ち腐れとなった。クライアントがいないのだったら自分が好きなもの、信じる絵を追求しようということになる。
『ダンス教室(バレエ教室)』 1873-1875年 エドガー・ドガ
印象派の時代。絵具チューブの開発で野外などどこででも描けるようになったが、写真に発明で絵の依頼が減り、画家たちは失業する。クライアントを失った画家は自分の描きたいもの信じるものを描き出す。
『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』1890年 クロード・モネ
若きモネとルノワールは、世に認められる以前から善き友として、お互いの才能を認め合っていた。いづれ「風景のモネ、人物のルノワール」と呼ばれ、世界的な画家に成長していった。
『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』1878年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
画家のオディロン・ルドンは、若い頃は印象派の色彩表現に惹かれながらも あえてモノクロの版画を利用し想像力を磨いた。 ルドンが色を使い出したのは、50歳を過ぎてからである。
『「起源」 Ⅲ. 不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた』 1883年
『眼=気球』1878年 オディロン・ルドン
鮮烈な色彩で花を描いたオディロン・ルドンが色を使い出したのは、ルドンは若い頃に印象派の画家たちの色彩表現に惹かれながらも、 あえてモノクロの版画を制作することで、想像力を磨いた。
クリエイターの発想の源にジャンルの隔たりはない。画家オディロン・ルドンは植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられ、その出会いが画風にも影響していく。個性とは環境に造られていく。氾濫する情報からの選択眼が重要。
『成分:花』 オディロン・ルドン
画家ルドンの描く絵は、肖像画や花瓶に生けられた花でさえ神秘的にみえる。なぜなら彼の興味は、周りで騒がれる売れっ子の画家たちの作品や世の中の風潮より、幼い頃から大好きだった神話の世界や顕微鏡でのぞきみる世界に向かれて大切にしていた。
『キュクロプス』1914年 オディロン・ルドン
クリエイターは色んな側面を持つ。生命力にあふれる『ひまわり』の絵で有名なゴッホは、彼を支えてくれた弟テオの生まれたばかりの息子のために、春を待つ希望の花『花咲くアーモンドの枝』を最後に描いた。この絵が遺作となった。
『花咲くアーモンドの木の枝』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
”思い”の強さで違いがでる。画家になる前にゴッホは牧師だった。ゴーギャンは25歳頃までは株の仲買人。 ルソーは”税理士”で世に出ている作品は50歳過ぎに描いたもの。 歴史に残る作家は特別な才能があったということより”伝えたい思い”といったモチベーションが極めて高かったといえる。年齢的に遅いというものはなく10、20代で人生は決まらない。
株式仲買商の仕事を辞め、家族も捨ててタヒチに渡り、絵を描いたゴーギャンの遺作、最後の作品『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年。 このタイトルの真意、描いた心中がとても気になる。
追及したいといった執念が感覚を鋭くする
印象派画家ドガの晩年、視力をほとんどなくしながらも経験と記憶で絵具の色の違いを 嗅覚で嗅ぎ分けて描いた。
『アイロンをかける2人の女』 1884年 エドガー・ドガ
『浴盤』 1886年 エドガー・ドガ
エゴン・シーレの”ドローイング(デッサン)”は、 絵画への準備(下描き)的な制約からそれを解放して、作品として独立しうるものになっている。
『自画像』 1912年 エゴン・シーレ
エゴン・シーレ
19世紀フランスの画家コロー あえて民族衣装をまとわせ人物画を描いた。風景画を描くときも民族衣装を着た人物を画面に入れ、時代劇の一場面のような絵を描いた。母国の文化を大切に思い、現代人が自分たちのルーツを忘れないように努力した。
『モルトフォンテーヌの思い出』 1864年 カミーユ・コロー
『真珠の女』1870年 カミーユ・コロー
夕焼けを描いた絵画がなかったかなあーと思ったら、イギリスのソウルペインターのターナーがいた。
このイギリス人巨匠画家は、夕焼けか朝焼けだか分からない絵が多いが実は油絵の溶き油が長い年月でやけて、黄変しているせいだったりもする。
『雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道』 1844年 ウィリアム・ターナー
ターナー 肖像
モンマルトルのカフェで芸術論をぶつけ合い苦悩する前衛画家たちの中で、幸せそうに絵を描いていたルノアール。師匠から「君はなぜ描いているのだ」とかいった問いに対して「楽しいから」と答え、破門された。そんなルノワールは絵画に輝きを与えた。
『ムーランド・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』1876年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
印象派の巨匠、病床のルノワールは最後にアネモネの絵を描きました。「ようやく何かがわかりかけた気がする。」という言葉を残し、その夜に亡くなったそうです。78歳でした。
『アネモネ』1883年-90年 ピエール=オーギュスト・ルノワール
光に照らされた明るい部分の色は”白い”のではなく“鮮やか”にみえる。いわゆる発色がよく、彩度が高い。絵具は混色することで彩度が下がる。
印象派の画家たちはキャンバスに純色を置くように重ねていった(筆触分割)。だから輝くような色彩により自然光を感じる。
『睡蓮(Nymphéas)』 1916年 クロード・モネ
『グランド・ジャット島の日曜日の午後』1884-86年 ジョルジュ・スーラ
それまでの絵を描く目的、題材が宗教や権威、権力といった限られたものから 印象派の画家たちによって、単に庶民的になったということだけではなく、描くモチベーションの幅が宇宙での出来事まで一気に広がっていき、画期的な発展を遂げている。
『星月夜』1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
『包帯をしてパイプをくわえた自画像』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
原始人たちは、住いの壁に生きていくためのサバイバル生活を描いた。
古代ギリシャは“感動(エロス)、
中世は感情(宗教)、ルネサンスは人間(現実)を表現した。
バロックは権力、ロマン主義では革命。
そして、印象派から個人的なタイムラインを描き出した。
『ラ・ジャポネーズ(La japonaise)』 1875-1876年 クロード・モネ
近代、世界中の新進気鋭のアーティストが集まっていたフランス パリから、第2次世界大戦後の1950年代ころ、前衛アートシーンの中心がアメリカのニューヨークに移ってきた。アートの主導権争いも経済や国力に左右されてきた。
『緑色の惨事10回』1963年 アンディ・ウォーホル
リキテンシュタイン
実体のないものをテーマに描こうとしたイタリアの画家ジョルジョ・デ・キリコ。「時計は正午に近い時刻を示しているのに影がひどく長い」「走る汽車の煙が真上にまっすぐ立ち上っている。」 など 観る者が静謐、謎、幻惑、困惑、不安、郷愁や哀愁、人の心情などを感じる形而上絵画 。
『通りの神秘と憂愁』1914年 ジョルジョ・デ・キリコ
ジョルジョ・デ・キリコ
シュルレアリスムの画家サルバドール・ダリ。毎回、クオリティーが落ちないように時間をかけて丁寧に砂糖で固めていた長くそり上がったひげがダリの象徴といえる。そんなこだわりに「シュルレアリスム画家ダリ」として生きる魅力を感じる。
サルバドール・ダリ
『海辺に現れた顔と果物鉢』 1938年 サルヴァドール・ダリ
自宅アパートの狭いキッチンで、世界中に名をとどろかせる絵を描いていた。しかもスーツ姿で描いていた庶民派の画家マグリット。キッチンの窓から見える風景やテーブルの上の果物などどこにでもある身近なものから想像を膨らませていた。
ルネ・マグリット
『不可能の企て』 1928年 ルネ・マグリット
『trahison des images(イメージの裏切り)』1929年 ルネ・マグリット
「発想は情報の組合わせ」 知らないものや理解できないものにはなかなか共感できない。そんなものでも見慣れたものとの組合せで受け入れやすくなる。新鮮な視点が物事を劇的に変える。画家マグリットは皆が知っているもの、身近なものの新鮮な組み合わせで世界を驚かせた。
『共同発明』1934年 ルネ・マグリット
『赤いモデルⅢ』1937年ルネ・マグリット
『私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい』 画家 マティス。身の丈を超す巨大な観葉植物が立ち並び、鳥たちは放し飼いで、テーブルの上には多様な花でいっぱいの植物園のような自分にとって心地よい空間、創作環境で数々の傑作を生みだしていた。
『食卓-赤の調和』 1908年 アンリ・マティス
アンリ・マティスのアトリエ
『赤のアトリエ』1911年アンリ・マティス
画家も何をしたかではなく、何のためにやっているかが心に響く。絵画のアカデミックな教育を受けていない素朴派画家といわれるアンリ・ルソーの世界的に知られる名画は、50才過ぎに描いた作品。
ルソーが世に出る前、モンマルトの画家たちは「へたくそ」と馬鹿にしていた中、彼の才能を認めていたのが近代芸術の巨匠パブロ・ピカソ。
やはりピカソには、絵を「上手い下手」だけでは評価しない先見の明があったといえる。
『フットボールをする人々』1908年 アンリ・ルソー
パリの画家アンリ・ルソー 異国のジャングルや森の中を描いていることから、ナポレオン4世のアフリカ遠征に同行したなどとうわさされていたが、彼はジャングルに行ったことがない。
画家ルソーの絵は本当に体感してきたような緻密さとリアルさがあるが、実際には近所の植物園でのスケッチとお気に入りの動物写真集と旅行をしてきた知人の話を参考に描いていた。
『熱帯嵐のなかのトラ』1891年 アンリ・ルソー
『蛇使いの女』1907年 アンリ・ルソー
伝達手段の発達(映画)、キュビスム。モダンアートの時代
ルネサンス以来の写実(遠近法、色)を放棄。 目に映るもの、色彩ではなく、心が感じる色彩とかたちを表現した。ダ・ヴィンチから引き継がれていた遠近法を否定した近代絵画の巨匠ピカソ。
「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ。」
= 多重視点構造(キュビスム) ⇔ 単視点構造(ルネサンス以降の絵画)
『アビニヨンの娘たち』 1907年-1908年
正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供をもうけた。
「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間が
かかったものだ」
『泣く女』 1937年
■『青の時代』のピカソ(1901~1904年)
1901年、友人の一人がこの世を去ってしまいます。とてもショックを受けたピカソは、貧困や孤独、絶望をテーマにした冷たい青色を多くつかった。
「盲人の食事」
「人生 La Vie」 1903年
■『ばら色の時代』のピカソ(1904~1907年)
暗い『青の時代』から急に明るい色調の絵画を描きだしたきっかけは、恋愛でした。ピカソは1904年に オリビア という女性と出会い、付き合い始めます。サーカスや旅芸人を題材にした明るく、にぎやかな絵画を描いています。
この頃に描いた絵はよく売れ、ピカソ(23歳)は、有名な画家になっていきました。
『サルタンバンクの家族』
『パイプを持つ少年』 1904年-1907年
1907年、新しい恋人 エヴァ(本名はアンベール)。キュビズムの絵画に変化していった(ピカソ26歳)。
■キュビズムの時代(1907~1916年)
ピカソの絵画と聞いて思い浮かべるのは、このキュビズムの時代の絵画でしょう。1915年には恋人のエヴァが病気でこの世を去ってしまい、ピカソは一人になってしまいます。
『ヴァイオリンと葡萄』 1912年
ピカソの絵画で特に印象深いのが、キュビズムの時代です。そのため、ピカソの絵が難しすぎてよくわからないという人や下手な絵なのになぜか有名な画家、と思っている人も多いのは確かです。ですがピカソの絵画の時代の移り変わりを見ていくと、ピカソはまさに天才だと実感できるはずです。ピカソの絵画は、全て考え抜かれて描かれているのです。
ピカソはこんな言葉を残しています。
「なぜ自然を模倣しなければならないのか?それくらいなら完全な円を描こうとするほう
がましなくらいだ」
〇アバンギャルド(反体制)
※伝達手段の発達(映画)。
•キュビズム(多重視点構造⇔単視点構造)。
それまでの具象絵画が一つの "視点" 視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな
角度から見た物の形を一つの画面に収め、 ルネサンス以来の"一点透視図法" 一点透視図法を否定した。
ルネサンス以降の遠近法を放棄し、描く対象を複数の視点から3次元的に捉え、1枚の
平面(2次元)の中に表現した。
ルネサンス以来の「単一焦点による "遠近法" 遠近法」の放棄(すなわち、複数の視点による対象の把握と画面上の再構成) 形態上の極端な解体・単純化・抽象化 を主な特徴とする。
・フォーヴィスム
フォーヴィスムが色彩の革命であるのに対して、キュビスムは形態の革命である、という言い方をされることもある。要は、正面、横、後と色んなところから“見た目”を一場面にまとめたといったことがキュビズム。
ちなみにフォーヴィスムは"キュビスム" のように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図に従属するものではなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に使われるべきであるとする。
■新古典主義の時代(1918~1925年)
ピカソは、キュビズムの絵画をずっと描いていたわけではありません。この時代はゆったりとした人物をイキイキと描いています。
人物たちの形もまるくなっているのが特徴です。
『海辺を走る二人の女』 1922年
オルガという女性と出会い、結婚します。1920年代の後半からは、オルガとの生活がうまくいかなくなります。ピカソ(39歳)はアトリエに閉じこもり、挿絵を多く描くようになりました。
■シュルレアリスムの時代(1925年~)
この時代から晩年にかけてのピカソの作品はシュルレアリスムの手法だけではなく、様々な手法を取り入れています。
『三人のダンサー』 1925年
ピカソが46歳のとき、17歳のマリー=テレーズ・ワルテル という女性を出会い、付き合い始めます。 ピカソはオルガと離婚できずに長い別居生活が始まります。 マリーは1935年にマヤという女の子をうみます。ピカソはマヤがうまれた後に ドラ という女性と付き合いはじめます。 1936年からのスペインでの内乱をきっかけに、ピカソは1枚の絵を描きます。攻撃された町の名前をそのままタイトルにした有名な『ゲルニカ』です。
戦争の悲しみ、憎しみ、悔しさ、苦しさ…が表現された『ゲルニカ』。
ドイツ兵から「この絵を描いたのはお前か。」と聞かれた近代美術の巨匠ピカソは
「この絵を描いたのは、あなたたちだ。」と答えました。
『ゲルニカ』 1937年
1943年、21歳の 女性画家フランソワーズ と付き合い、1945年にドラと別れました。フランソワーズと付き合っていたときのピカソ(62歳)は、絵画を制作しつつ、陶器もつくっていました。フランソワーズは1953年に子供をつれて出て行ってしまいます。
一時はショックを受けたピカソ(72歳)ですが、またすぐに別の女性ジャクリーヌと付き合いはじめ、2度目の結婚をします。
ピカソは一生の間に13,000点の絵画、100,000点の版画、34,000点の挿絵、そして300点もの彫刻を制作しています。
一日あたり2~3枚以上のペースで絵画や版画を制作していた計算です。
『鳥』 1948年
・創造のコツは、それがどこから得たものかわからないようにすること。
・個性とは、選択して構築してきた情報の違い。
・独創性とは、心揺さぶられたこと、欲求、興味で選んで記憶している情報素材を
新鮮な気持ちになれる組み合わせで再構成されること。
出会った女性たちや周りの友人、ライバルたちによって”天才ピカソの才能”も”独創的な作品”も造られていったといえる。
ピカソは、友人(画家)のアトリエに招待されなくなっていった。それはピカソがライバルたちの新作を一目みただけで”模倣”ではなく完全に自分の作品として創造する力を持っていたからだ。
他者の新鮮な情報を一瞬で理解し、自分の持っている情報と再構築して個性にしていった。
アンチアートの時代
「芸術」という概念そのものを疑う。美術館に回収されることや画商などに商品として扱われることを拒否。それまでの芸術性を無視した絵画、日用品などを作品として展示するレディ・メイドなど過激ともとられる表現がでた。
『泉』 マルセル・デュシャン
『DuchampLHOOQ』 マルセル・デュシャン
『階段を降りる裸体No.2』 1912年 マルセル・デュシャン
『彼女の独身者に裸にされた花嫁、さえも』
通称「大ガラス」1915-1923年 マルセル・デュシャン
18世紀後半に起きた産業革命以降、ますます加速化し、発達する機械文明。
デュシャンはいつの日か人間さえもそのシステムの中に組み込まれ、一個の機械(単純な連続性)となるだろうことを鋭い感性で予感していた。
たまに思い出して気持ちが新鮮になる言葉
「私たちの生き方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように生きるか、
すべてが奇跡であるかのように生きるかである」 by アインシュタイン
1921年、ウィーンでの講義中のアルベルト・アインシュタイン
Comments