美意識:美しい生き方、働き方
- sfumita7
- 6月9日
- 読了時間: 27分
更新日:1 日前
「歳を重ねて美しくなる人は、生き方がいい」
こんな生き方をする人は、美意識を磨いている。
どんな日も、ちょっとした気づきや発見が、心を押し上げてくれる。
些細な気づきで、美意識は磨かれる。

誰でも、人や環境の変化を無意識に受け入れている。
心に響いた本を読み返すように
以前に書き留めていた日記を見直すと
現在とは違う自分に気づくことができる。
人も環境も変わり続けていることが
自然なことだと実感できる。
毎日、違う自分に再生し続ける。
記憶も記録も塗り替えられていく。
いつでも、どんな場所でも“自分時間”の流れの中で過ごす。
大きな流れに沿いながらも
信じる方向性を示していく。
ただ反発しても結果は出せない。
『周りにも自分に対しても思いやりの心を持つ生活習慣が、美意識』
『守っているものから、守られている』
『過去へ向かうな 未来へ向かえ』
『美意識は、相手を思いやる習慣によって磨かれる』
『地球の裏側までさまようことなく、近所の散歩で冒険をする』
『見えている“自分”、見えている“世界”は、氷山の一角』
『生活の場で、何度でも冒険を続ける』
『時間や光の移ろいのように、同じ人や場もそこにはいない』
『美意識は、相手を思いやる習慣によって磨かれる』
好きなことには、のめり込み
嫌いなことは、見直し
辛いことからは、全力で逃げればいい
雨も風情に変える日本人。西洋の画家を驚かせた浮世絵師 広重の雨の表現。当時、線で雨を視覚化する発想はなかった。今、当たり前のものとしてみている、感じていることは先人が気づかせてくれた。気がついていない画期的、革命的なことがまだある。

顔の表情があまりないギリシャ彫刻 これは古代ギリシャ人の『人間的感情を公で出すのは野蛮である』の考えに基づくもの。日本でも平安貴族と鎌倉武士それぞれの考えの違いで彫刻の表情が全く違う。どの時代も人の考え、思いを伝えている。

平安時代にピカチュウとケロロ軍曹 発見!!二足歩行をする耳の先の黒いウサギとかえる。1000年前の絵巻物につながる日本アニメは独自に発展した文化。【鳥獣人物戯画 絵巻物】無名の僧侶たちが80年間かけて庶民の生活を描いた。

色や影の違いが4、5段階しか意識しなかったのが、絵を描くなどして観察眼を鍛えていくと10段階以上みえるようになってくる。色の微妙な見分けも同じで画家が綺麗な風景を絵に描くのは技法によるものだけでなく、実際に世の中が輝いてみえている。

「デッサン力」とは決して「描写力」の範囲に止まるものではない、 むしろ「デッサン力」とは「創造力、伝達力」のことだと言える。情報の組み合わせ、視覚伝達として描くと絵は上達する。
安定感の感じ方は東西、共通らしい。黄金比 1:1.618、約5:8の長方形。この比率はギリシャ彫刻や絵画に使われているが、最も安定したバランスのいい比率として、金閣寺やパルテノン神殿の建造物、ピラミッドにも使われている。

歴史に残る作家は特別な才能があったということより思いを伝えるモチベーションが極めて高かったといえる。25歳頃までは株の仲買人だったゴーギャン、ゴッホは牧師。税理士だったルソーの世に出ている絵のほとんどは50歳過ぎに描いた。年齢的に遅いというものはなく20、30代で人生は決まらない。人の知的欲求は根源的なところにある。

劇団四季の座長が「隣の時計をみない」とそれぞれのペースで成長していく大切さを語っていた。他人と比較することで劣等感や不幸を感じてしまいがちで、どんな状況でも「今の自分よりも少しでも良くしよう」といった“もっと”が幸福感を持続させる。
性に合わない人たちとも付き合い、性に合わないことも経験していくと心の中にある違った側面がたくさん刺激され、やがて心が頑丈になる。楽しい時も辛い時も無心でいられる時が成長している時。そう自分にも言い聞かせて、不快を快に変えている。
「今日はこれができたから、それでいい」「明日はこれだけやればいい」。一日、何かやりたかったことを一つでもできれば、それで上等、いっぺんにたくさんできることが偉いわけではない。一つ一つ実現していくことが大事。

絵(デッサン)を描くときにも「よくみる」ことが基本ですが、これは「必要な情報を見極め、的確に捉える。物事を理解する」ということです。何かを理解するときに五感を使って知覚することは重要な役割をはたします。
ポケーッとしなさい。忙しく働いている時よりもボーっとしている時の方が数倍も速い速度で頭が動いているらしい。ゆったりとした時間が多かった日に有意義な夢を見ることがある。意識している以上に情報が整理され、解決の糸口まで見つかっている。
人や物事は色んな側面を持つ。情熱の画家ゴッホの遺作『花咲くアーモンドの枝』。生命力にあふれる『ひまわり』の絵で有名なゴッホは、彼を支えてくれた弟テオの生まれたばかりの息子のために春を待つかわいい希望の花を最後に描いて亡くなった。

人によって色の認識が違うことにゲーテは気づき、ダ・ヴィンチは人体の魅力を解剖によって発見し、画家のコローは光の演出によって奥行きを具体的に設定できることなどに気づくまで庶民は、何の疑問も持たないで”普通”のこととして見過ごしていた。

クリエイターの発想の源にジャンルの隔たりはない。画家オディロン・ルドンは植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられ、その出会いが画風にも影響していく。個性とは環境に造られていく。氾濫する情報からの選択眼が重要。

めんどうくさい事やめんどくさいと感じる相手には、その存在自体に意味があることを考えてみると発見がある。その存在の意味が分かると新鮮な空気が入り込み、気分が爽快になる。探究心は、心の散策路。
レオナルド・ダヴィンチは、凡庸な人間は「注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、味わうことなく食べ、体を意識せずに動き、香りに気づくことなく呼吸し、考えずに歩いている」と嘆き、 あらゆる楽しみの根底には感覚的知性を磨くといった真面目な目的があると提唱していた。

大抵の思い込みは、自分で気づかないから厄介。川の流れを止めると水が淀む、腐る。 情報を止めると思考が止まる。その状態が思い込み。情報の思い込みで判断すると不安で辛くなる。思い込みを取り除くだけで開成長する。思考量を増やし自分と違った考えも受け入れ、新鮮な流れを止めない方がいい。
働いた方が面白い。一人でいるよりも人の中に入った方がめんどくさいに決まってる。けど、後々ひとりの悩みは軽くなる。人はコミュニケーションで活かされ生き物。だからコミュニケーション力を磨くと人は魅力的になる。
最近でも小学生男子がやっぱりというか『うんこ』と『ちんちん』を連発している。 数十年前、ドリフターズの加藤茶がテレビで連発して小学生から絶大なる人気と怪物的視聴率をたたき出していた『うんこちんちん』という魅惑の言葉。不滅だ。

自分の才能、実(画)力をみせるために絵を描くと苦悩しストレスになっていくが、誰かに伝えるため、何かのために描くとワクワクして快感になる。
「そんなことで?」 でも、その人にとっては幸せなのである。 そんな些細な幸せを拾い集めてかたちにしているのがクリエイター。
数学者は、実際に見たことのない宇宙空間などを数字に置き換える。イメージした空間を色やかたちに置き換える画家に似ている。
近代絵画の巨匠ピカソは画家のアトリエに招待されなくなった。ピカソはライバルたちの新作を一目みただけで模倣ではなく、完全に自分の表現として盗みとる力を持っていた。他者の新鮮な発想を価値ある情報であると一瞬で見抜き、個性にしていった。

光に照らされた明るい部分の色は”白い”のではなく“鮮やか”にみえる。いわゆる発色がよく、彩度が高い。絵具は混色することで彩度が下がる。印象派の画家たちはキャンバスに純色を置くように重ねていった。だから色に光を感じる。
ゲゲゲの鬼太郎は妖怪から人間を守っているのではなく、 身勝手な開発や自然破壊を続ける人間と風習や自然を守り伝承しようとする妖怪たちとの間(文明と文化)に立って最善の解決策を考えている。

「子どもたちはユーモアを求めている。人は失敗するし失敗するものだから温かみを感じる。」と語るミヒャエル・エンデのファンタジーは子供だけでなく大人の心ほど豊かにする。「芸術から教訓は受けない。頭が賢くなるのではなく、心が豊かになる。」

ちょっとした”考え方”の違いで日常が劇的に変わる。自分の仕事に意味を見出すとモチベーションが上がり、やるべきことがみえてきて元気が湧いてくる。元気だと生活や人間関係も変わってくる。そんな考え方を持つことをコンセプト(思い)という。
”印象”とは曖昧なものではなく、象徴であり具体的なシンボルといえる。心に残る”印象”は、そのものを伝えるための大切な記録と記憶になる。
『嫌いなことから、人は学ぶ』 。「嫌い」なことや「わからないこと」こそストレスが溜まるのではなく、突き詰めると本当に知りたいことにたどり着く。好きなことばかりでなく、困ったことを解決することが大切。不安の解決がストレス解消になる。
「周りに迷惑をかけないこと」
この言葉には「今、自分のやるべきことをやる。」「周りのことを考える。」「自分の仕事に意味を見出す。」「お世話になったときもいつもと変わらずに過ごせたときも感謝する。」など根本的なことが含まれている。
岡倉天心は渡米先にて、羽織袴姿で闊歩する日本人留学生らに「お前たちは中国人か日本人か?」とからかってきたアメリカ人に対して「お前たちはモンキーなのかヤンキーなのか?」とやり返した。西洋文化を受け入れながらも西洋に引けを取らない姿勢で日本の近代美術を支えた師。その理念が今こそ必要。

知見が広がるほどに色んな生き方、色んな仕事の方法、色んな教育方法に気づく。
今まで自分が普通と思っていたことは実は常識ではないことが、
机の前、家の外、地域、国の外に出れば出るほど、そう感じることが多い。
古代エジプト人は、死後の世界に対して独特の関心を持っていた。
古代エジプト人ほど「永遠」という言葉を好んだ民族はないといわれる。
かれらの死後の世界を描いたのが「死者の書」。のちのユダヤ教、キリスト教の「最後の審判」に影響をあたえた。

デッサンを学ぶということは、アスリートにあこがれているだけではなく自分でもすぐにできる本格的な筋トレをやってみることと同じ。
紙と鉛筆だけで想像以上の世界が広がる。
絵を描きながら考えるとアイデアが具体的になる。
ただ頭の中だけでイメージするよりは実際に紙面に絵を描き、視覚で確認していった方がイメージ画像を修正でき発想も具体的に展開していきやすくなるので、理想の現実に近付けていくことができる。
最も小さく描かれているのは子供ではなく、奴隷。 古代エジプト壁画では、身分が高いほど大きく描かなくてはいけないといった三千年のルールがあった。

大きな流れに沿いながらも信じる方向性を示していく。
ただ反発しても結果は出せない。
アートの暗黒時代”ビザンチン”。宗教のために美術が利用された時代から、人間本来の姿に関心を向けていった”ルネサンス”に繋げた画家ジオットの功績は大きい。

初めてのことにチャレンジしている人は若くて元気だ。
もっともっとと欲求が続く冒険者や研究者、料理人、画家、経営者、起業家,小説家などモチベーションの高いクリエイターが
ボケた話を聞いたことがない。
めんどくさい事やめんどくさいと感じる相手には、その存在自体に意味があることを考えてみると発見がある。
その存在の意味が分かると新鮮な空気が入り込み、気分が爽快になる。
探究心は、心の散策。
何事も上手さというよりは、「誰かのために」といった思いの現れで 親切、丁寧になることが大切だと感じる。
自然からの恵みである森や川を共有し、共存していた縄文人を日本人のルーツとして捉えた岡本太郎は、大阪万博で太陽の塔をデザインした。
渡来人が森を切り崩し田畑にし稲作が始まった弥生時代から大きな争いが始まった。
日本文化のルーツは縄文時代。

安井曾太郎の日本で独学中とフランス留学中に描いたデッサンは明らかに違う。
明治時代に西洋の美術や哲学を日本に導入したときの間違った解釈をそのまま現在まで引き継いでいることがまだある。

線や色を言葉に置き換えて絵を描くように文章を考えるようになった。
最初は言葉のリズムや構成の美しさや心地よさを意識していたが、絵を描くことと一緒で伝えることを大切にし始めてから思いを表現しやすくなった。
文章も絵も行動も一緒で思いを「伝える」意識がないと相手に響かない。
劇団四季の座長が「隣の時計をみない」とそれぞれのペースで成長していく大切さを語っていた。
他人と比較することで劣等感や不幸を感じてしまいがちで、
どんな状況でも「今の自分よりも少しでも良くしよう」といった“もっと”が
幸福感を持続させる。
できないこと、分からないこと、知らないことが自分の伸びしろ。
知っているつもり、分かったつもりでいることが成長を遅らせる。
誰でもできることで幸福感をアップ。
「早起きする」「日光をたくさん浴びる」「体を温める」「誰かと比べない」「よく見る」「続ける=成長する=繰り返しではない」「大きなことより、小さなことを大切にする」。成長の過程で幸福感は持続する。
見たつもり、思い込みや知っているつもりでは絵に描けない。
描けないのは的確な情報を捉えていないだけで、才能がないわけでも下手なわけでもない。
絵を描くことは”漠然とした苦手意識、思い込み”を取り除くだけで一気に上達してしまう。
世の中に動画というものがない時代に動画的な視点で描いていた絵描きがいた。
宗達、光琳、広重、北斎…、そして若中。
西洋絵画は”場面”を捉える、いわゆる広告看板。
日本の絵師は、瞬間を捉えるのではなく時間の流れを捉える映像を描いていた。

どの色が使われているかで、西洋絵画の読み解きができる。 赤=慈愛・殉教・権力 黄=異端者・邪悪さ 白=純潔・無垢 黒=禁欲・死 緑=希望・恋 青=誠実さ・悲しみ 多色、縞=社会の規範を乱す者 これらは西洋の宗教絵画の色彩ルール。

絵は読書と似ていて描く数を重ねるごとに発見がある。
クリエイターとは限られた職種のことではない。
人が喜ぶこと、ものを創造している人はクリエイターといえる。
誰かの思いを具現化する絵を描くことでクリエイターとしての能力を磨くことができる。
体温が上がることで免疫力も高まる。
難問を解いている時や解決に向かって努力している時は、集中しながらも気が高まっている実感がある。
クリエイターに年齢を感じさせない活力を感じるのは創造意欲や向上心で、免疫力が高まっているのかもしれない。
アイデアを絵に描くことで実現にちかづく。
手先を動かした方が、脳が活発に働いて新鮮なアイデアも浮かぶ。
絵を描くことは、脳を活性化させるための手先の運動と考えた方がいい。
体を動かした方が喋りやすかったり、考えがまとまったりする。
デッサンは本番に失敗しないための練習ではない。
絵は、具体的なテーマ(視点)を意識すると描く気分が変わる。
例えば、リンゴをただ見て描くのではなく「丸いかわいいリンゴ」「おとぎの世界の毒リンゴ」 と掘り下げた視点で観ると描きやすくなる。
イメージが具体的なほど描きやすい。
癖にはエネルギーがある。
癖はその人を象徴するシンボルとなる。
癖がある人ほどいなくなると寂しくなる。

「どんな友達が欲しい?」 と小学生の息子から聞かれ
「仕事で知り合った人と仲良く出来るといいかな〜」と答えると、
「僕は、自然と仲良くなりたい。風とか海とか。」とスケールのでかいことを言われ
自分の返答に後悔。子どもとの会話は油断禁物。
意識して覚えたことは忘れていくが無意識にみたり聞いたりしていたことは頭の中に沈殿し何かの拍子に浮上してくる。
目に飛び込んでくる画像、耳に入ってくる音、言葉を意識して選別しているわけではなく、そんな唱えたような記憶が残っていく。
武相荘。白洲(次郎、正子)夫妻が疎開先で住居にしていた家。
「最も贅沢なのは、職人を使うこと」、白洲夫妻のアイデアを詰め込んだ住居。


印象派の画家たちは失業者だった。
19世紀に写真が発明され、それまで依頼されてきた肖像画、風景画などの仕事が減少し職を失った。
クライアントがいないのだったら自分が好きなもの、家族や友人、信じる絵を追求しようということになる。

人間の胎児は、お腹の中ではえら呼吸をしている。
生命の始まりである海と同じ成分(ミネラル)を含む羊水の中で泳ぐように生物の進化を経て、生まれた瞬間から肺呼吸になる。
本能は進化の過程の記憶であり、成長の中で新たに学んでいる思考も
”思い出し”を繰り返していると考えると面白い。
古代ギリシャから、学者やアーティストが散歩を好むように
五感や手足を使いながら思考することは、脳がうまく機能していく効果がある。
絵を描くなど手、体を動かしながら考えるとイメージが浮かびやすくなり、アイデアが展開し具体化されていく。
不快を快にしていく、そんな日常や仕事での解決法が、デザイン。
「そんなことで?」 でも、その人にとっては幸せなのである。そんな些細な幸せを拾い集めてかたちにしているのがクリエイター。
時間に追われて無計画にかたづけをしてしまって、見かけはきれいに整理整頓したつもりが、その後、必要となるものまで捨ててしまったことを後悔したことがある。
将来のビジョンをしっかり持った方が情報の選択が適格になるし、判断の精度が高まる。
絵を描くこともそうだが続けているとそれまでとは違った物事が見えるようになってくる。最初は目の前にある問題だけしか見えなかったのが情報の領域が広がっていき、その物事に影響を及ぼしている周囲の状況が見えてきて、本質を理解していく。
知っていると思っていることは、大半が思い込み。
違った視点から何度でも見直してみると気づかなかった新鮮な情報がみえてくる。
新鮮な情報が組み合わされるだけで、思い込みや一方的な見方が変わり違う世界が見えてくる。
それだけで成長している。
自由はいいもの。計画も目的もない自由は不安になるから、目的に向かって自由に過ごせるための人生設計が大切。
設計は自由にできる。未来のビジョンが具体的になると生活に張りがでる。
人が満足できるそのほとんどを文化的なことから手に入れられる。
苦手で嫌で厄介に感じることが、自分の”伸びしろ”だったりする。
自分にとっていやなことを成長していくための必要悪として捉えられると
少し受け入れられて、心が強くなる。
アトリエは自宅アパートの狭いキッチン。
しかもスーツ姿で描いていた庶民派の画家マグリット。
キッチンの窓から見える風景やテーブルの上の果物など
どこにでもある身近なものから想像を膨らませ、世界中に名をとどろかせる絵を描いていた。

王家の隠された真実を絵画の中に描き残している。
王女の遊び相手の道化に踏まれても我慢している忠実を表す犬は、宮廷画家ベラスケス自身。
画面奥の鏡に王女の部屋に入ってきた王が映っている。
王女たちが緊張した空気に包みこまれた瞬間を描いた絵。

その時代の文明と文化とは関連しあって変化している。
19世紀 印象派の時代。 チューブ入り油絵具、写真技術、電球、電話の発明。
電気で明るく照らされたアトリエ。
絵具チューブをもって、野外でも油絵が描けるようになり色も輝きだした。

描くときの鉛筆の削り方 芯は1.5㎝ほど出し、その側面を使ってクレヨンのように色をのせていくので全体的に細長く削っておく。
すると「点・線・面」を自由自在に描ける、鉛筆が万能な道具(画材)”魔法の杖”となる。
絵画は技巧的な理由で英才教育の必要はないが、アートに触れることは人間育成には影響してくる。
書物もそうですが絵や作品との出会いは運命的な人との出会いと匹敵するものがある。
その作品の読み解きができるとさらに成長できる。
画家は一枚の絵を仕上げていく間に何度も対象物を観察し、観点を確かめながら描いている。
様々な状況や記憶との葛藤などとその情報の領域が広がっていきビジュアル情報として表現される。
時間の経過や作家の心情、視線の動きが刻印されていく。
デッサンで必要な観察眼とは表面的な描写力だけではなく、
観ているものの構造や光など
周りからどのような影響が及ぼされているのかを読み解き、理解する力である。
このリサーチ力、伝達力は絵を描くことにとどまらず、様々な仕事にも必要とされる。
色々な技法を学んで教室やアトリエの中で描けるようになっても
結局、生活の中で応用し使っていく習慣がつかなければ身に付かない。
技巧が身についていなくても伝える気持ちがあればいい。
生活や仕事で日常的に使っていけばデッサン力は磨かれる。
マンドリンは聴覚、パンは味覚、巾着は触覚、花は嗅覚、鏡は視覚を それぞれ五感を象徴して描かれている。
17世紀 バロック時代の静物画は、物の意味(寓意)の要素が濃く、人生の寓意画として描かれている。

自分の思いだけを押し付けるのではなく、相手の思い描く物語を引き出そう、 出しやすくしてあげる姿勢に信頼感を感じる。
仕事も教育も 意思疎通(相手の言いたいことを予想する能力)が大切になってくる。

色を巧みに使えば人の心も操れるかも。
法王も高貴な僧侶も紫色をまとう。
黄色は中国で最も高貴、アメリカではゴールドラッシュ、キリスト教では裏切り(ユダ)の色。
世界的に勝負色は赤。
青は貴重で誠実な色。
日本では青のパッケージが売れるがアメリカでは黄色が売れる。欧米では赤い絵が売れる。
相手の思いや意見を否定するのが話し合いではない。
相手の思いを受け入れ、さらに良い解決策を共に考えていくのが話し合い。
正解のない課題を対処した経験が多い人は他者の違う考えも受け入れ、
尊重しながら他者と共に最善策を導き出すことができる。
辛いことを楽しめ!は酷。 嫌いなことを好きになることもできない。
辛いことも嫌いなことも必要と受け入れるといい。
面倒が起らないように面倒くさいことをやっておくことと
面倒が起きてから、面倒くさいことをやらされることとは違う。
積極的な「面倒くさい」は「やりがい」に代わる。
イメージ力。彼はジャングルに行ったことがない。
画家ルソーの絵は本当に体感してきたような緻密さとリアルさがあるが、
ジャングルの絵も動物の写真集と近くの植物園でのスケッチと
実際に旅行してきた知人の体験談から得た情報を組み合わせて描いた。

構図とは、料理に置き換えると
「季節の素材を使って、その季節の素材を生かす調理をし、その季節にあった料理を完成させ視覚と嗅覚、味覚を楽しませる、季節料理の盛り付け。」のような
作業とこだわりといえる。
人や動物を描きたい方は、美術解剖学で骨格と筋肉を理解すれば速攻で上達します。
東京藝術大学で以前、ススメていた専門書『アトラス』が人体を描くには参考になります。動物でしたらエレンバーガーの『ANATLAS OF ”ANIMAL ANATOMY” FOR ARTISTS』がオススメ。
社会から芸術を取り除くということは
高層ビルの階段や非常口、屋上、窓を取り除くことと一緒。
ビルはあっても中にいる人がうまく機能しなくなる。
学校から芸術の時間がなくなると創造性と集中力が低下して
結果的に他の教科の学力が落ちる。
何か才能や技術がないと創作、表現をすることが出来ないと勘違いをしている方がたくさんいる。
絵にしても小説にしても遊びにしても大切なのは突き動かす衝動であり、
その衝動を誰かに伝えたいという欲求があること。
成長を望んでいる人が成長していく。
成長を望んでいるだけで、すでに成長している。
未来の理想を言葉だけではなく絵やかたちに視覚化することで、
それが具体的になればなるほど実現に近づいていく。
美術館の企画展は名優が出そろった映画を観ているようだが、
常設展はしぶめの俳優がきらりと才能をのぞかせているマニアックな映画を観ているようだ。
常設展の空間の方がプライベートビーチのような気軽さがあって落ち着く。
美術館をたまには常設展の内容で選んでみても面白い。
自画像、肖像画とは写真のように写し取ることが目的ではなく、
その「人物」を象徴する情報を組み合わせ、描き伝えること。
その人について伝えたい情報を選択と整理をするときに作者の視点、解釈が加味される。
バルビゾン派と呼ばれる画家たちは、都会から田舎へはじき出されたのではない。
自ら都会の下らない権威や醜い争いから離れ、人間本来の生き方を正しく見直そうとした。

書物(文章)をただ眺めて「見る」だけでは意味がなく、
「読んで理解する」感覚が必要。
絵を描くときも世の中をそのまま「写す」といった「見方」ではなく、
「理解する観方」「視点のある観方」を意識できると
世界の感じ方が劇的に変わってくる。
絵は思いを伝える道具。
いかに相手に伝わるかを意識することが大切になってくる。
思いを伝えるラブレターなどの手紙や看板、標識、何かを承認してもらうための企画書と同じ。
何を伝えたいのか、その目的や思いによってずいぶん違う絵になっていく。
「デッサン力」があるということは、
表面的な描画力だけではなく情報を収集する力や思考し伝達する能力のこと。
ものの構造を見極められることや
構想している計画や企画を伝えられる能力のことで、
そんな感覚や感性を磨くことが、
クリエイティブの世界だけではなく一般社会で見直されてきている。
デッサンで必要な観察眼とは表面的な描写力だけではなく、
観ているものの構造や光など周りからどのような影響が及ぼされているのかを
読み解き、理解する力である。
このリサーチ力、伝達力は絵を描くことにとどまらず様々な仕事にも必要とされる。
すでに身につけていることがある。
大したことではないと思い込んでいる。
知識量やスキルなんて他より劣っていてもいい、
些細なことでも気になることは見直し
熟慮して、新鮮な視点で組み合わせて十分に使いこなしていけば、
他にはマネできない独創的なものに成長する。
絵や音楽、言葉を使う最大の目的は、人に開放感をあたえること。
思い込みによる閉塞感が人を不安や不幸にしていく。
だから清流のように新鮮な情報を伝え続ける絵や音楽、言葉の文化交流が人には必要。
自分も含めて「知っていたのにな~」と
誰かに先に言われて気になる人が多いいと思われる。
それは出し抜かれたのではなく、その知識を使いこなせていないということ。
使って初めて身につけている知識もスキルも道具も持っている価値をもつ。
書物やネットも情報を得るために便利だが、
外に出て散歩したり、家の周りを片づけたりすることにより
有益で新鮮な情報をたくさん得ることができる。
情報の領域を体感として広げていくと成長する。
机上での知識だけではなく、実際に歩いて知見を広げる。
やりたいことは、差別や比較をなくすこと。
向上心はあった方がいいに決まっている。
一人一人が成長していければ幸せ、
そんな人たちが集まれば組織も世の中も成長していく。
批評家や評論家になってはいけない。
非難されようが失敗しようが、行動して工夫を繰り返している人がいないと何事も証明されない。
高いところから見ようとしている奴のことなんか気にしなくていい。
郷愁や哀愁、人の心情を描くとこんな絵になる。
画家キリコ、何か不安になる絵画。
汽車は走っているのに煙は真上に上がり、
時計は正午を指しているのに影が夕方のように長い。

光と色にこだわっていた絵描き技。
印象派絵画の色は輝いている。筆で絵具を引っ張らずにのせている(塗るのではなく置いている感覚)。
パレットの上で混色しすぎないでキャンバスの上で重ねながら色を造っているので
純色に近い発色を保っている。

どこに行くにしても何か一つだけやることを決めておくといい。
一日一つだけでも決めたことを達成できると充実感が残る。
毎日のルーティーンでもいい。
それが一週、一か月、数年と続いていけば、実はすごいことになっていく。
人はそれぞれ違うフィルターを持っている。
自分のフィルターで情報を解釈している。
その情報の大半は言葉ではなく、視覚で吸収して
思い込みで判断し行動している。
「どんなアートをしたい?」という問いに対して
「イラスト、絵本、写真、映画、彫刻…。」など、
ほとんどの学生がモチベーションではなく限定された制作手段を答える。
「どんなことがしたい?」と質問をかえると
「冒険がしたい。何かの役に立ちたい…」などの欲求が出てくる。
アートは思いに直結する。
世間から見向きもされなかったクリエイターたちの“気づき”は、
その強い思いと努力で、いずれジャンルを超えて
日常生活の普通のこととして認識されていき、
結果的に広く社会に貢献していく。
性に合わない人たちとも付き合い、性に合わないことも経験していくと
心の中にある違った側面がたくさん刺激され、やがて心が頑丈になる。
楽しい時も辛い時も無心でいられる時が成長している時。
そう自分にも言い聞かせて、不快を快に変えている。
どんな富士山を絵に描くのか。
あまりにもポピュラーだからこそ、あなたの思い描く富士山の姿が「構図」に表れることになる。
構図のとりかたから、作者の思いが伝わってくる。

「芸術から教訓は受けない。頭が賢くなるのではなく、心が豊かになる。」
「子どもたちはユーモアを求めている。人は失敗するし失敗するものだから温かみを感じる。」
と語るミヒャエル・エンデのファンタジーは
子供だけでなく大人の心ほど豊かにする。
天才とは、思考といった誰もが出来ることをたくさんした人たち。
思考量が多い人たちが世の中を変え、人を成長させてきた。
だから、受動的な情報の詰込みではなく
能動的に情報を選択し設計していくため、自ら思考量を増やしていける環境が大切。
実際に世の中が輝いてみえている。
色や影の違いが4、5段階しか意識しなかったのが
絵を描くなどして観察眼を鍛えていくと10段階以上みえるようになってくる。
色の微妙な見分けも同じで
画家が綺麗な風景を絵に描くのは技法によるものだけでない。
デッサン力とは決して描写力の範囲に止まるものではない、 むしろデッサン力とは、構築力、伝達力のことだと言える。
絵はイメージできれば描くことができる。
逆に頭の中で具体的にビジュアルが思い浮かべられないと描けない。
描けないのは絵が下手なわけではなく、的確な情報を捉えていないだけ。
モナ・リザは、隈取がバツグンに似合う。

以前は「普段、考えていることなんて、みんな気がついている。」と思い込んでいたが、そうでもないらしい。
同じ情報でも視点の違った捉え方によって活用の幅が広がり役立つこともあるので、良いと思ったことは共有した方がいいみたい。
個人の思いが世の中で簡単に共有できる環境になってきている。
その時点での成功や評価に満足するよりも、問題点や間違いを発見できた方が未来につながる。
失敗は恥ずかしくない。
できないことが自分の伸びしろ。できないことの発見が成長につながる。
ポテンシャルの高い人は、どうやら余計な心配や悩んでいる時間が少ない。
不安な点や分からないことは迷う前にすぐ調べる。
集めた情報で洞察し予測し行動計画を設計する。
後は迷わず
問題を解決するための工夫を繰り返す。目的に前向きな明快な生き方。
「やると決めたら笑ってやる。」
面倒が起らないように、先に気づいて面倒くさいことをやっておくことと
面倒が起きてから、面倒くさいことをやらされることとは違う。
積極的な「面倒くさい」は「やりがい」に代わる。
積極的に動いたことだけ身につく。
Comments