ブログ小説『実現したいこと――人生は、まだ名前のない作品』

「お父さんは、何をつくりたいの?」
ある休日の午後、息子が唐突に訊いた。
私は仕事机の前に座り、削りかけの鉛筆を握っていた。
窓の外では、洗濯物が風に揺れている。
妻がベランダでシャツを取り込み、台所からは湯の沸く小さな音が聞こえていた。
どこにでもある家族の休日だった。
「何をつくりたいって?」
「だから、絵とか、彫刻とか」
私は少し考えた。
画家なのだから、
「絵を描きたい」
と答えればいい。
けれど、その日はなぜか、その言葉が口から出てこなかった。
私は鉛筆を机に置いた。
そして言った。
「そうだなあ……面白いものを見つけたいかな」
息子は不思議そうな顔をした。
「それ、作品なの?」
私は笑った。
そのとき、台所にいた妻が言った。
「いいんじゃない。見つけたものを絵にすれば」
なるほど。
私は思った。
もしかすると、順番は逆なのかもしれない。
絵を描きたいから、何かを探すのではない。
何かを見つけてしまったから、それを誰かに伝えたくなって、絵を描く。
「何をつくるか」より、「何をしたいか」
美術を教えていると、ときどき学生に訊くことがある。
「どんなアートをやりたいですか?」
すると、
「写真です」
「絵画です」
「映像をやりたいです」
「彫刻に興味があります」
そんな答えが返ってくる。
もちろん、どれも間違いではない。
けれど私は、質問を少し変えてみる。
「では、あなたは、本当は何をしたいですか?」
すると、答えが変わる。
「知らない町を歩きたい」
「秘密基地をつくってみたい」
「人を笑わせたい」
「物語をつくりたい」
「誰かの役に立ちたい」
「自分が生きた証しを残したい」
その瞬間、私はいつも少し嬉しくなる。
そこに、その人のアートの入口が見えるからだ。
絵画も写真も映画も彫刻も、目的ではない。
それは、まだ言葉になっていない何かを、この世界へ連れてくるための乗り物なのかもしれない。
大切なのは、
「何を使うか」
ではなく、
「何を実現したいか」
なのだ。
庭をつくることも、人生を描くこと

アメリカに、ターシャ・テューダーという女性がいた。
絵本作家であり、挿絵画家だった。
けれど、彼女の作品を知れば知るほど、どこからが作品で、どこからが暮らしなのか分からなくなる。
庭をつくる。
花を育てる。
料理をする。
服を縫う。
編み物をする。
人形劇をする。
家族とお茶を飲む。
そして、その暮らしの中から絵を描いた。

彼女は百冊を超える本に関わり、その絵にはニューイングランドの自然や家族、動物、庭や農場といった、彼女自身が生きていた世界が何度も現れた。
つまり彼女は、絵のために人生をつくったのではない。
自分が生きたい人生を生き、その人生から絵が生まれてきたのである。
ある朝、私は家の近所を歩きながら、そのことを考えていた。
公園では、小さな子どもが落ち葉を集めていた。
赤い葉。
黄色い葉。
茶色い葉。
子どもはそれをベンチの上に並べていた。
規則正しく並べるわけでもない。
誰かに見せるためでもない。
ただ、本人が美しいと思った順番に置いている。
私は立ち止まった。
――これも、アートなんじゃないか。
美術館には収蔵されない。
展覧会にも出ない。
評論家も論じない。
夕方には風に飛ばされてしまう。
それでも、その子は確かに世界を編集していた。
世界の中から「好き」を選び、
並べ、
自分だけの秩序をつくっていた。
人間は、ずいぶん幼いころから表現者なのだ。
ただ大人になる途中で、そのことを忘れてしまう。
鉛筆の先にある宇宙
机の上の鉛筆を見ながら、私はダルトン・ゲッティの作品を思い出した。
彼は鉛筆で絵を描くのではない。
鉛筆の芯そのものを彫る。
針や小さな刃物を使い、黒鉛の先に、驚くほど小さな彫刻を生み出す。


アルファベット。
靴。
ハンマー。
鎖。
目を凝らさなければ見落としてしまうほど小さな世界だ。
大作とは、巨大な作品のことだと思っていた。
けれど、彼の仕事を見ていると、その考えが揺らぐ。
大きさとは何だろう。
数センチにも満たない黒鉛の中に、何か月、時には何年という時間が入っている。
人間の集中。
失敗。
ため息。
忍耐。
喜び。
一本の鉛筆の先端に、それだけの時間が凝縮されている。
作品の大きさは、寸法では測れない。
その中にどれだけの「生」が入っているか。
それが作品の本当の大きさなのかもしれない。
私は机の鉛筆を持ち上げた。
息子が訊いた。
「何してるの?」
「鉛筆を見てる」
「さっきから?」
「うん」
「暇なの?」
私は笑った。
けれど、こういう無駄な時間から、案外、大切なものが始まる。
着物に描かれた秋

江戸時代。
尾形光琳は、屏風や掛軸だけに絵を描いたわけではなかった。
彼は一枚の白い小袖にも秋を描いた。
現在「冬木小袖」と呼ばれる《白綾地秋草模様小袖》である。
桔梗、菊、萩、薄。
白い絹の上に、秋草が静かに広がっている。
伝承によれば、光琳が江戸・深川の材木商、冬木家に滞在した際、その家の夫人のために描いたという。
興味深いのは、これは単なる「絵」ではないということだ。
人が着る。
歩く。
振り向く。
袖が揺れる。
つまり身体が動くことで、秋草も動く。
美術館の壁に掛けられた絵画とは違う。
人間の生活の中を、絵が歩くのである。

光琳はまた、《八橋蒔絵螺鈿硯箱》のような工芸にも大胆な造形を残した。
硯箱。
つまり、もともとは文字を書くための道具である。
道具でありながら、芸術でもある。
使うものと、見るもの。
生活と、美術。
その境界は、私たちが思っているほど固くない。
考えてみれば、日本には昔からそういう文化があった。
茶碗。
着物。
漆器。
屏風。
扇。
庭。
料理。
暮らしの中へ美を入れる。
いや、むしろ、
暮らすことそのものを、美へ近づけていく。
そんな感覚があった。
父のアトリエ
私の父も画家だった。
子どものころ、父のアトリエには独特の匂いがあった。
絵具。
油。
木枠。
キャンバス。
描きかけの絵。
私はそこで育った。
だから長いあいだ、アートとは「絵を描くこと」だと思っていた。
けれど、
自分も父親になり、家族と暮らし、子どもたちが大きくなり、
少しずつ考えが変わってきた。
父が残したものは、絵だけではなかったのではないか。
絵を描いている背中。
ものを見る眼差し。
一つのことを長く続ける姿。
誰かに評価されなくても、朝になればアトリエへ向かう習慣。
それらもまた、父が残した作品だったのではないか。
人は、作品だけを残すのではない。
生き方を残す。
その人が何を大切にしたかは、言葉にしなくても、近くにいる人間へ少しずつ染み込んでいく。
絵具が布へ染み込むように。
家族という、未完成の作品
夜。
食卓を囲んでいると、妻が言った。
「今日、何か面白いことあった?」
息子はスマートフォンを見ながら、
「別に」
と答えた。
私も、
「特にないなあ」
と言った。
妻が笑った。
「じゃあ、平和だったってことね」
その言葉を聞いて、私は箸を止めた。
そうか。
何もなかった日は、
「何もない日」ではない。
何も失わなかった日なのだ。
誰も病気にならず、
大きな喧嘩もせず、
家族が同じ食卓に座り、
くだらない話をして、
ご飯を食べる。
歴史の教科書には絶対に載らない。
新聞記事にもならない。
SNSで話題にもならない。
しかし人生の最後に思い出すのは、案外、こういう夜なのかもしれない。
私はずっと、作品とは「残るもの」だと思っていた。
けれど違うのかもしれない。
消えてしまうからこそ、作品になるものもある。
夕食。
散歩。
子どもとの会話。
妻の笑い声。
父の背中。
母との電話。
窓から見た夕焼け。
いつか全部なくなる。
だから、人は記憶する。
だから、人は描く。
だから、人は書く。
技術は、夢のあとからやってくる
もちろん、技術は大切だ。
絵を描くなら、線を引く技術がいる。
光を描くなら、明暗を理解する必要がある。
人を描くなら、骨格や筋肉も知らなければならない。
けれど、技術から始めると、ときどき迷子になる。
「上手く描くこと」が目的になってしまうからだ。
本当は、
誰かを喜ばせたい。
この景色を残したい。
亡くなった人を忘れたくない。
自分の中にある言葉にならないものを伝えたい。
そういう願いが先にある。
そして、その願いを叶えるために、
鉛筆が必要になる。
絵具が必要になる。
写真が必要になる。
文章が必要になる。
映像が必要になる。
だから技術とは、
夢を現実へ運ぶための橋なのだ。
橋そのものを立派にすることが目的ではない。
渡りたい場所があるから、橋を架ける。
人生には、まだ名前のない表現がある
翌朝、私は散歩に出た。
昨日と同じ道だった。
けれど、昨日とは違って見えた。
道路脇から伸びた草。
古い家の植木鉢。
自転車の籠に置かれた手袋。
犬を散歩させる老人。
パン屋から漂ってくる匂い。
世界は、作品でいっぱいだった。
いや。
作品になる直前のもので、いっぱいだった。
誰かがそれに気づけばいい。
立ち止まり、
面白いと思い、
誰かに伝えたいと思った瞬間、
日常は表現へ変わる。
もしかすると、アートの民主化とは、
すべての人を画家にすることではない。
すべての人に、
「あなたは、すでに表現者なのだ」
と思い出してもらうことなのかもしれない。
料理をする人。
庭をつくる人。
写真を撮る人。
子どもに物語を聞かせる人。
部屋を片づける人。
旅をする人。
手紙を書く人。
誰かを励ます人。
そこに「こうしたい」という意志があり、
「こうなったらいいな」というイメージがあり、
そのために少し工夫するなら、
そこにはもう、創造がある。
実現したいこと
家へ戻ると、息子がまだ寝ていた。
妻は台所に立っていた。
「散歩、どうだった?」
「面白かったよ」
「昨日と同じ道でしょう?」
「同じ道」
「何が面白かったの?」
私は少し考えてから答えた。
「昨日と違う自分が歩いてた」
妻は一瞬こちらを見て、
「また難しいこと言ってる」
と笑った。
私も笑った。
窓から朝の光が入っていた。
その光がテーブルの上のコップを照らしている。
ただそれだけの光景だった。
けれど、美しかった。
私は思う。
人生で本当に探すべきものは、
「自分には何ができるのか」
だけではない。
その前に、
「自分は、何を実現したいのか」
と訊いてみることなのだ。
答えは立派でなくていい。
世界を変えたい、でなくてもいい。
家族を笑わせたい。
庭に花を咲かせたい。
知らない町を歩きたい。
誰かに手紙を書きたい。
今日の夕焼けを残したい。
そんな小さな衝動でいい。
大切なのは、
自分の心が少し動く方向へ歩いてみることだ。
そのとき、
絵画が必要なら絵を描けばいい。
写真が必要ならカメラを持てばいい。
文章なら書けばいい。
料理なら台所へ立てばいい。
庭なら土を耕せばいい。
そして、まだ名前のない方法なら、
自分でつくればいい。
表現手段は、あとからついてくる。
人生は、完成してから作品になるのではない。
迷いながら、
失敗しながら、
誰かと出会い、
別れ、
笑い、
ときには立ち止まりながら、
少しずつ形になっていく。
だから私たちは皆、
まだ制作途中なのだ。
完成していない。
だからこそ、
明日という余白がある。
その白い余白に、
次は何を描こう。
そんなことを考えられる朝があるなら、
人生はまだ、
いくらでも面白くなる。



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