ブログ小説『家族という、ひとつのアトリエ』
- 聖二 文田
- 6 分前
- 読了時間: 16分
何度も思い出すこと
人間は、忘れることで生きていける。
けれど、ときどき不思議に思う。
何十年も前の、どうでもよさそうな一瞬だけが、なぜか消えない。
父の声。母の笑った顔。夕方の台所の匂い。子どもの寝る前の「おやすみなさい」。
人生を決めた大事件よりも、そんな小さな出来事のほうが、歳を重ねるほど鮮明になっていく。
記憶とは、過去を保存する倉庫ではないのかもしれない。
今の自分に必要なものを、遠い時間の中から何度でも取り出してくれる、心のアトリエなのだと思う。
心の世界
大学受験のため鹿児島を離れ、東京へ出た。
まだ携帯電話もメールもない時代、故郷の両親と僕をつないでいたのは、手紙と長距離電話だった。
小学生の頃の母は厳しかった。
しつけにも教育にも細かく、子どもの僕には、その厳しさばかりが見えていた。
ところが僕が大人になるにつれ、母は少しずつ丸くなっていった。
笑うことが増えた。
息子たちが家庭を持ってからも心配性だけは変わらなかったが、それも今なら分かる。
親というものは、子どもが何歳になっても、心のどこかでは「あの小さな子」のまま見ているのだ。
母は六十代で難病を患った。
入退院を繰り返し、やがて介護施設に入った。
歳を重ねるにつれ感情が不安定になり、記憶も少しずつ遠くへ行った。
ある日、施設へ電話すると、
「いま、ワンちゃんと散歩していますよ」
と職員の方が教えてくれた。
セラピードッグと歩いている母の携帯電話につないでもらった。
「ワンちゃん、かわいいよ。昔みたいに蹴ったりしてないよ」
母は笑った。
それは、僕の知らない少女時代の母が、そのまま電話口に現れたような声だった。
勝ち気な少女だったという母。
病気も老いも、その瞬間だけはどこかへ消えていた。
後になって考えると、それが母ときちんと言葉を交わせた最後の会話だった。
やがて僕の顔も、家族の記憶も薄れていった。
電話をしても、
「今、雪が降ってきた。きれい」
そんな言葉だけが返ってくる。
こちらが何を尋ねても、会話は同じ場所には戻ってこなかった。
それでも母は言った。
「寂しくないよ」
そして、
「楽しいことしか思い出さない」
と。
読書が好きで、小説の世界に入り込むことが好きだった母である。
もしかすると晩年の母は、現実から離れてしまったのではなく、自分が愛した物語や、幼い日の鹿児島や、息子たちがまだ小さかった頃の食卓や、若かった父との時間を、自由に行き来していたのかもしれない。
フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》を見ると、ときどき母を思う。
あの絵は特定の人物の肖像というより、「トローニー」と呼ばれる人物表現で、少女が誰なのかは分からない。暗闇の中から顔だけがこちらへ振り返り、唇と瞳と真珠にわずかな光が宿る。フェルメールは二、三の小さな光だけで、ひとりの人間が今そこにいるような気配を生み出した。
人の一生も、似ている。
すべてを覚えている必要などないのだろう。
暗闇の中に、いくつかの光が残ればいい。
母にとって、それが「楽しいこと」だったのなら、それでよかったのだと思う。
家族の心配ばかりして生きた母は最後になって、ようやく自分の心の世界を自由に歩いていたのかもしれない。

芸術家の家
父は洋画家だった。
大学で教える教育者でもあった。
実家の二階には両親の寝室と、天井の高い大きなアトリエしかなかった。
父が家にいる日は、昼から深夜までそこに籠もった。
絵を描き、本を読み、映画や録画した映像を見る。
食事と風呂以外、ほとんど降りてこない。
会社員の家庭とはずいぶん違った。
画家仲間が家に集まり、酒を飲み、芸術について延々と語った。
ホームパーティーはするのに、家族だけで外食した記憶はほとんどない。
旅行へ行くのも母と息子たち。
父は、絵を描いていた。
子どもの僕には、それが少し寂しかった。
だが画家という仕事は、ときに家族にさえ説明できない。
近代画家クールベが1855年に描いた巨大な《画家のアトリエ》には、画家を中心に、友人、思想家、労働者、貧しい人々、芸術を愛する人々など、社会そのもののような人物たちが集められている。
クールベ自身は「世界が私のアトリエに描かれにやってくる」という趣旨の言葉を残した。しかもこの作品が万国博覧会で受け入れられなかったとき、彼は自費で「レアリスム館」を建て、自分自身の展覧会を開いてしまった。
画家のアトリエとは、単なる仕事部屋ではない。
世間と格闘する場所であり、自分自身と喧嘩をする場所であり、この世界をどう見るかを決める場所でもある。

父にとって二階のアトリエは、そういう場所だったのだろう。
それが分かるようになったのは、ずいぶん後だった。
僕は三年浪人して、東京藝術大学へ入った。
その頃から帰省すると、父と酒を飲みながら芸術について話すようになった。
大学で何をやっているのか。
東京ではどんな展覧会を見たのか。
これから何を作ろうとしているのか。
父は嬉しそうに聞いた。
不思議だった。
子どもの頃、二人きりではほとんど会話をしなかった父と、深夜まで話が尽きなかった。
父と息子ではなく、
画家と、画家になろうとしている若者。
そんな関係が僕たちを近づけてくれた。
東京へ戻る日になると父は、
「次はいつ帰る」
と聞いた。
寂しそうなくせに、玄関までは来ない。
相変わらずアトリエにいる。
いかにも父らしい。
子どもは、親の知らないところで育つ
やがて僕にも二人の息子ができた。
幼い頃は、思い出を作ってやろうと思った。
動物園、旅行、公園、ドライブ。
いろんな場所へ連れて行き、食べ、遊び、写真を撮った。
ところが大人になった次男が、特別な思い出として語ったのは、そんな家族旅行ではなかった。
幼稚園の頃、小学生だった兄と、その友達と一緒に、初めて子どもだけでバスに乗り、最寄り駅まで行った日のことだった。
大人にしてみれば、ほんの数停留所の小旅行である。
だが幼い彼には、大冒険だった。
親のいないバス。
自分で見る車窓。
降りる場所を間違えてはいけないという緊張。
兄についていく心細さ。
世界が突然、大きくなった。
僕が一生懸命作ろうとした「思い出」より、親の手を離れた数十分のほうが、彼を成長させていた。
そういうものなのだ。
《鳥獣戯画》では、兎や蛙や猿たちが走り、転び、遊び、競い合う。
何百年も昔の絵なのに、子どもたちの放課後のように生き生きしている。
明治初期には文化財調査の対象となり、模写だけでなく当時新しかった写真という方法でも記録されていたという。古い絵巻そのものが、時代を越えて「記憶を残す」という営みの中を生き延びてきた。
子どもも同じだ。
親が残したい場面と、子ども自身が覚えている場面は違う。
だから面白い。

家族という名の共同制作
ある冬、家の給湯器が壊れた。
二月の寒い夜だった。
家族四人が体を洗うため、鍋とやかんで何度も湯を沸かした。
普通なら不幸な出来事である。
ところが、やってみると妙に楽しい。
「次のお湯、沸いたよ」
「こっち運ぶよ」
「熱いから水入れて」
家族総出である。
不便になると、人間は知恵を出す。
誰かが困ると、誰かが動く。
そして後になると、快適だった何百日より、たった数日の不便な夜をよく覚えている。
修理業者の人に来てもらうため、給湯器の周囲を片づけた。
すると、気になっていた家の外回りまで片づけ始めた。
その勢いで納戸まで整理した。
捨てられなかったものを処分した。
給湯器が壊れただけなのに、家まで心まで少し軽くなった。
幸福とは、問題がない状態ではないのかもしれない。
問題が起きたとき、誰とどう過ごしたか。
その記憶の中にも幸福は宿る。
長谷川等伯の《松林図屏風》には、霧の中に松が現れ、また消えていく。
墨の濃淡と大胆な筆だけで、湿った空気や風まで感じさせる作品である。東京国立博物館は、その松の配置が風の流れさえ感じさせるほど計算されていると解説している。
けれど、この屏風で最も美しいものは、松そのものだけではない。
松と松の「あいだ」だ。
何も描かれていない霧の余白が、世界を広くしている。
家族にも余白がいる。
全部を言わなくていい。
全部を分かり合わなくてもいい。
ただ同じ家にいて、
「おかえり」
「今日はどうだった」
「おやすみ」
それくらいでいい。

人は、もらった温かさで育つ
小学生の頃、父から突然言われたことがある。
「聖二は作文が得意だもんなあ」
学校で作文を褒められた記憶などなかった。
国語の成績が飛び抜けて良かったわけでもない。
だから驚いた。
そして、嬉しかった。
父がそう言うのなら、自分は文章が得意なのかもしれない。
たった一言だった。
だが、その一言が、その後の僕の背中を何度も押した。
大人になり、教育に関わるようになって気づいた。
子どもは、大人が思っている以上に、大人の言葉を長く持っている。
逆もある。
中学生になった息子が、勤労感謝の日の朝、部活から帰ってくるなり僕の前に座った。
「お父さん、ありがとう」
突然だった。
「学校や塾に行かせてもらって、いつも家族のために働いてくれて、感謝してます」
数日前に十四歳になったばかりだった。
共働きで、妻と二人、必死に子育てをしてきた。
仕事について迷ったこともある。
芸術を続けながら家庭を持つという生き方が、正しかったのか考えた夜もある。
息子の一言で、その迷いがふっと消えた。
ミレーの《種まく人》には、大地を踏みしめ、大きく腕を振って種を蒔く男がいる。
種を蒔いたその日に芽は出ない。
まして、自分が蒔いたどの種が育つのかなど分からない。
子育ても教育も同じなのだと思う。
言葉を蒔く。
態度を蒔く。
一緒に食べた夕飯を蒔く。
「おかえり」を蒔く。
そして十年、二十年して、思いもよらないところから芽が出る。

誕生会
11歳の頃、ほとんど話をしたことのないクラスメイトに誕生会へ呼ばれた。
体が大きく、坊主頭で、大人びた強面の少年だった。
ドッジボール以外では、たいてい一人でいた。
なぜ僕を呼ぶのか分からなかった。
プレゼントには、自分が作りたいプラモデルを買った。
教えられた道を歩いていく。
山間の国道沿いにある質素な長屋だった。
玄関を入ると土間の台所。
狭い二間。
ちゃぶ台には軽食と、ショートケーキが二つあった。
そこで初めて分かった。
客は僕一人だった。
プレゼントを渡すと、少年は見たことのない顔で笑った。
学校では一度も見せなかった、年相応の子どもの顔だった。
お母さんは何度も、
「いつもありがとうね」
と言った。
僕は心の中で戸惑っていた。
――いや、二人で遊んだことなんて、ほとんどないんだけど。
出された雀の串焼きを見て、
――雀って食べられるんだ。
と思った。
少年はほとんどしゃべらず、渡したプラモデルをずっと手に持っていた。
帰るとき、少年とお母さんは外まで見送ってくれた。
「今日はありがとう。またね」
西日が国道を照らしていた。
僕は歩きながら、なぜだか泣きそうになった。
誰かの暮らしを、ほんの少しだけ知った。
学校で見えている人間が、その人の全部ではないことを知った。
11歳の僕は、誕生会に行く前と帰る途中では、少し違う人間になっていた。
人の人生を変えるのは、大事件ばかりではない。
ショートケーキ二つと、
一個のプラモデルと、
「来てくれてありがとう」
そんなもので十分なのだ。
今あるもので、心を潤す

尾形光琳の《燕子花図屏風》では、金地の上に青と緑の燕子花が繰り返し現れる。
根津美術館は、その花々が左右の屏風の対比と均衡を考えて、強いリズムを生むよう配置されていると説明している。
描かれているものは驚くほど少ない。
空もない。
人物もいない。
物語らしい事件もない。
それでも、見ていると心が潤う。
幸福もそうなのではないか。
増やすことばかり考えると、いつまでも足りない。
旅行が足りない。
お金が足りない。
時間が足りない。
成功が足りない。
けれど、雨の音を聞く。
風の匂いを嗅ぐ。
食事を味わう。
雲を見る。
犬を撫でる。
家族の声を聞く。
それだけで世界はかなり豊かである。
妻と遠くへ旅行へ行きたいと思いながら、なかなか行けなかった時期がある。
近所を散歩したり、ドライブしたりするだけ。
申し訳ないと思っていた。
しかし妻は楽しそうだった。
その顔を見ながら、ある日思った。
目的地に着かなければ旅でないのだろうか。
一緒に将来の話をしている時間そのものが、すでに旅なのではないか。
芸術を見るということ

高校の美術の先生が、
「セザンヌは、絵を描くことを研究したんだ」
と熱心に話してくれた。
当時は意味が分からなかった。
「構図や画面のバランスを考えて、わざと形を歪めるんだ」
ますます分からなかった。
けれど先生があまりにも嬉しそうにしゃべるので、セザンヌが好きになった。
知識より先に、誰かの情熱が伝染した。
芸術教育とは、案外そういうものかもしれない。
正解を教えることではない。
「これは面白いぞ」と、大人が本気で面白がっている姿を見せること。
父のアトリエもそうだった。
高校の先生もそうだった。
そして僕も、いつの間にか同じことをしている。
子どもたちに空を見せる。
絵を見せる。
「この色、すごいと思わない?」
と話す。
するとある日、息子に、
「どんな友達が欲しい?」
と聞かれた。
僕は現実的に、
「仕事で知り合った人と仲良くできるといいかな」
と答えた。
息子は少し考えて、
「僕は自然と仲良くなりたい。風とか海とか」
と言った。
負けたと思った。
父のアトリエの、その後
父が他界した。
生前、父は百号を超える大作を含め、多くの油絵を鹿児島の美術館、図書館、病院などに寄贈していた。
それでもアトリエには、一生分の資料と、制作途中の絵と、デッサンが残った。
遺されたアトリエを整理しながら思った。
ものを作る人間は、死んだ後まで物を残す。
それは宿命なのかもしれない。
葬儀では、父のアトリエを再現した。
そして来てくださった方々に、
「父の絵をもらっていただける方にお譲りします」
と伝えた。
すると不思議な縁がつながった。
父の職場で世話になったという方。
父の作品をすでに所蔵していた地元の美術館。
学芸員。
話は思いがけない方向へ進み、残されていた作品を管理していただけることになった。
妻が言った。
「鹿児島に、おじいちゃんの絵を観に行く楽しみができたね」
息子たちも喜んだ。
僕は思った。
父は死んだのに、これからも人と会うのだ。
絵という姿になって。
近代画家のクールベが《画家のアトリエ》の中央に画家自身を置いたように、画家は世界を自分のアトリエへ招き入れる。
しかし死後は反対になるのかもしれない。
作品のほうが世界へ出ていき、
作者を知らない誰かに会う。
そこでまた新しい人生が始まる。
「お父さんは幸せ者だね」
本当にそう思う。

最後の「ありがとう」
父と最後に電話で話した日。
いつもの芸術談義ではなかった。
東京の家族のこと。
父の体調。
入院している母のこと。
そんな何でもない話だった。
会話の終わりに父が言った。
「電話、ありがとうね」
ただ、それだけだった。
でも、その言葉が残った。
人は最後の言葉を選べない。
だから、生きている間に何度でも言っておいたほうがいい。
ありがとう。
嬉しかった。
助かった。
またね。
おやすみ。

フェルメールが家庭の室内に落ちる静かな光を描き、ルノワールが家族のいる部屋の豊かさを描いたように、芸術家たちは昔から「日常」を繰り返し描いてきた。
《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》に描かれた一家は、当時のパリでも文化人が集う華やかな家庭だった。夫人のサロンにはフローベールやゾラら文学者も出入りしていたという。だが百年以上経った今、私たちが画面から受け取るのは社交界の肩書だけではない。母と子どもが同じ空間にいる、ただそれだけの温度である。
結局、人間が最後に思い出すのは、そういう時間なのだろう。

家族というアトリエ
夜、仕事をしていると家族が声をかけにくる。
「お父さん、おやすみなさい」
帰宅すると、
「おかえり」
幼かった息子は、僕の汗の匂いを嗅いで、
「お仕事のにおいだね」
と言った。
小学生の息子が洗濯物を取り込む。
両手いっぱいに抱え、サッシを足で開ける。
段取りは悪い。
少し危なっかしい。
それでも一生懸命だ。
ある晩、遅く帰宅して息子二人に、
「今日はどうだった?」
と聞いた。
「トイレの電球が切れた」
「それを超える出来事は?」
「なしっ」
平和である。
これでいい。
いや、これがいい。
僕は長い間、芸術とは何かを考えてきた。
何を描くのか。
なぜ表現するのか。
作品とは何を残すのか。
だが歳を重ねて、少し答えが変わった。
芸術とは、世界にあるものを、もう一度見つけることなのかもしれない。
風景を見つける。
人を見つける。
誰かの優しさを見つける。
昨日まで当たり前だったものが、実は当たり前ではなかったと見つける。
母が毎日掃除をしてくれていたから、実家には嫌な匂いの記憶がなかったこと。
父が無口だったのではなく、絵を通じて世界と話し続けていたこと。
祖父が遠い鹿児島で、受験する孫のために七夕の短冊を書いてくれていたこと。
叔父が苦労の多い人生を送りながら、
「上等、上等。偉いなあ」
と人を褒め続けていたこと。
何十年も経ってから分かる。
自分は、ずっと誰かの小さな優しさの上を歩いてきた。
そして今度は、自分が誰かの記憶の中に残っていく。
母は言った。
「楽しいことしか思い出さない」
昔は、その言葉を少し寂しく聞いた。
今は違う。
それは、人生についての、とても強い言葉だったのではないかと思う。
悲しいことがなかったわけではない。
苦しいことがなかったわけでもない。
それでも最後に、心が選び取った景色が「楽しかったこと」だった。
ならば、人間の心には、人生を救い直す力がある。
僕もこれから歳をとる。
多くのことを忘れるだろう。
名前を忘れるかもしれない。
出来事の順番も曖昧になるだろう。
それでも残ってほしいものがある。
母の声。
父のアトリエ。
鹿児島の光。
兄弟の笑い声。
妻と歩いた道。
息子たちの「おかえり」。
給湯器が壊れた寒い夜。
家族で囲んだ食卓。
雲。
風。
絵を描いていた時間。
そして、
「ありがとう」
と言われたこと。
「ありがとう」
と言えたこと。
人生は、おそらく壮大な完成作品ではない。
描いては消し、
失敗し、
描き直し、
余白を残しながら続いていく一枚の絵だ。
父がアトリエでそうしていたように。
僕たち家族も、それぞれ違う筆を持ち、ひとつの時間を描いてきた。
完成する日は来ない。
誰かがいなくなれば、
残った者が続きを描く。
子どもが大人になれば、
またその子どもへ筆が渡る。
そうして家族という絵は、
描いた人の名前さえ忘れられた後も、
誰かの心の中で静かに続いていく。
だから今日も、
何でもない一日を丁寧に見ていたい。
何でもいいから話しかけたい。
笑った顔を覚えていたい。
風の匂いを感じていたい。
そして眠る前には、
できれば声に出して伝えておきたい。
おやすみ。
今日もありがとう。
また明日。
いつかそれが、
誰かが何度も思い出す、
人生でいちばん温かな風景になるかもしれないから。



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