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空間を描くことは、世界を感じること──遠近法・間・余白に宿る感性

  • 執筆者の写真: sfumita7
    sfumita7
  • 7 日前
  • 読了時間: 3分



絵を描くとき、私たちは無意識のうちに「空間」を描いています。山と空の距離、光の奥行き、人と人の間のぬくもり――それらをどう感じ、どう表すかが絵の印象を決めます。実はこの“空間の感じ方”こそ、文化や時代によって大きく違っているのです。


『長岡の花火』 山下清
『長岡の花火』 山下清


一点透視図法と「見る私」

中学校の美術の時間に、遠近法で道や建物を描いたことがあるでしょう。線を引くと、すべての線が一点に集まり、まるで自分の視線が世界の中心にあるように見える。それがルネサンス以降、西洋絵画が見つけた「一点透視図法」です。


『最後の晩餐』1495-97年 レオナルド・ダ・ヴィンチ  サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
『最後の晩餐』1495-97年 レオナルド・ダ・ヴィンチ サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

この方法は、「世界をどう見るか」という哲学と深く結びついていました。自分という観察者の目を中心にして、すべてを整理・把握しようとする視点――いわば「私」が世界を理解するための秩序の目。遠近法の画面には、「見る私」と「見られる世界」という分かれ方がはっきり現れています。

西洋の絵は、科学や建築とも通じる「世界を構築する眼」の象徴でもあったのです。



東洋の空間、「間(ま)」と「余白」

ところが、東洋の絵画は少し違います。日本や中国の山水画を思い浮かべてください。遠くの山も近くの人も、一枚の画面にやわらかく溶け合い、空気や時間が流れるように描かれています。ここでは、見る人の視点が一点に固定されていません。視線は画面のなかを移動し、世界の中を“歩く”ように体験します。


『松林図屏風』 安土桃山時代 16世紀 長谷川等伯
『松林図屏風』 安土桃山時代 16世紀 長谷川等伯

この感覚を支えているのが「間(ま)」という考え方です。「間」とは、ものとものの“あいだ”。空白のようでいて、実は目に見えない空気や気配が満ちている場所です。

たとえば、襖絵や水墨画の余白には「何もない」のではなく、「まだ形にならないもの」が潜んでいる。日本の美意識にある「間」や「余白」は、世界と自分の境界をゆるやかにする仕掛けなのです。



見ることの哲学――包まれる視覚

西洋の遠近法は「私が世界を眺める」ための空間。東洋の「間」は「私が世界に包まれている」空間。この違いは、ただの技法や文化の違いではなく、「世界との付き合い方」の違いを表しています。

モネが光の変化を追い続けた印象派以降、近代の画家たちはこの境界を越えようとしました。彼らは、目に見える形よりも「見ることの感じ」そのものを描こうとしたのです。つまり、画面は「私」が作るものではなく、「世界との出会いの跡」として現れる。この考えは、東洋の「間」にもつながる感覚です。絵は、見ることと見られることが交わる“出来事の場”になるのです。


『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』1890年 クロード・モネ
『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』1890年 クロード・モネ


空間を感じること、それが描くこと

遠近法は世界を整理する知の技法であり、「間」や「余白」は世界を感じる知の形です。前者が「線で測ること」だとすれば、後者は「沈黙を聴くこと」。どちらも人間が空間と向き合うための方法であり、そのどちらにも、私たちの生き方が映し出されています。

絵を描くことは、ただ形を写すことではなく、「世界とどんな距離で関わるか」を試す行為でもあります。見つめる視線の先に、光が溶ける遠近の奥行きを見るのか。それとも、何も描かれていない余白の中に、静かに息づく気配を感じるのか。

その選択こそが、「描く」ということの哲学なのです。


『氷図屏風』 円山応挙
『氷図屏風』 円山応挙

 
 
 

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