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  • 執筆者の写真sfumita7

絵で伝えられると嬉しい

更新日:2022年1月10日


『忘れっぽい天使(Vergesslicher Engel)』1939年 Paul Klee



絵を描くことは、 絵のプロになるためだけに必要なことではない。

絵の描き方を習うということは、じつはものの観方、多角的な考え方、伝え方を学ぶということであり、それはたんに目で見るよりもずっと多くのことを意味している。

よく観て繰り返し絵を描くことで 本当のことに気づいていく。


何か才能や技術がないと創作、表現をすることが出来ないと勘違いをしている方がたくさんいる。

絵にしても小説にしても遊びにしても大切なのは突き動かす衝動であり、その衝動を誰かに伝えたいという欲求があること。



アニメーションは


「命を吹き込む、活気」といった意味がある。


『トーイストーリー』 ピクサー映画



イラストレーションは


「分かりやすくする(もの)」という意味がある。


『ハートカクテル』 わたせせいぞう



デッサン [dessin:仏] とは


物体の形、明暗などを平面に描画する美術の制作技法、過程、あるいは作品のこと。

※ドローイング[drawing:英語]は線描画の作品も示す。


•語源【ラテン語 designare [デジナーレ]】は「デザイン」と同じで

 ” 計画を記号に表す、図案、設計図”といった意味をもつ。


見たことや考えていることを絵に描いて伝えること。


『習作』 レオナルド・ダ・ヴィンチ


『習作』 ミケランジェロ



写実表現の発展


ルネサンス期の解剖学や絵画技法(遠近法・明暗法 etc.)、画材の発展により、精度の高い写実表現が可能になり、デッサンの芸術性が高まっていった。


『布のデッサン』 レオナルド・ダ・ヴィンチ



【クロッキー[croquis:仏]:情報収集】 


人物や動物など”動き”のあるものをごく簡単に描いた絵

ヘンリー・ムーワ画



【エスキース[esquisse:仏]:発想・情報整理】

※スケッチ[sketch:英]


構想している計画や企画を具体的に展開していく絵

眼に写ったかたちや頭の中のアイデアをごく簡単に記録する絵

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』 1499年 - 1500年頃



【エチュード[étude:仏][ 習作:日本]:展開】 


ものごとの構造や状況・状態を見極められる絵

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『女性の手の習作』


レオナルド・ダ・ヴィンチ 『子どもの習作』


ミケランジェロ 『リビヤの巫女のための習作』1510年頃



デッサン力は


基礎からステップアップとして順番に学んでいくのではなく、自分の目的に合わせて必要なアプリを集めていく感覚でアートのファンダメンタル(基本要素)を組み合わせていくとよい。

※基本要素

【プロポーション(比例/均衝/動感)/パースペクティブ(奥行感)/構図/バリュー(光と影)/シェイプ(単純化の程度)/質感など】

 を目的に合わせた組み合わせ(情報量)ることで、リアリティ(クロッキーから細密描写

 まで含む)を増していける。



イメージできれば描くことができる。


逆に頭の中で具体的にビジュアルが思い浮かべられないと描けない。


『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より


『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より


『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』より



「写実」とは


見えているものだけを描くことではない。対象(モデル/モチーフ)のもつ歴史的背景や性質までも読み解いて理解したことを描いているといえる。


レオナルド・ダ・ヴィンチ『ほつれ髪の女性』 1508年頃 パルマ国立美術館




絵画技法の発展


画材とそれを使う技法は、かなり直接的に美術表現に影響を及ぼした。



画材と技法

 

【モザイク技法】

 種々の色の鉱物などの細片をすきまなく敷き並べて、壁画や床を装飾する芸術の技法。

  モザイク 語源 Mousai(ミューズ) ラテン語(=ミューズ神/芸術的な)

『随臣を従えたユスティニアヌス帝』547年

ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂のモザイク画


【フレスコ技法】  下地の漆喰(しっくい)が乾かないうちに、水だけで溶いた顔料で描く技法。

 フレスコ fresco イタリア語(=新鮮な)

『エジプトへの逃避』1315年-1320年 ジョット・ディ・ボンドーネ

サン・フランチェスコ聖堂


【テンペラ技法】

 乳化作用を持つ物質を固着材として利用する絵具、及び これによる絵画技法。

 テンペラ tempera イタリア語(=混ぜ合わせるという意味)

『春(プリマヴューラ)』1482年 サンドロ・ボッティチェルリ


油絵技法】

  15世紀、ファン・エイク兄弟が油絵の技法を完成させた。

   ※油彩の最大の特徴は比較的乾燥が遅い為に修正がきくこと。修正がきくことから、

    カンヴァスや板に直接色彩で描くことが可能になった。

   ※フィレンツェのデッサンに彩色する技法に対し、ヴェネツィアで初めから色彩で

    描いていく技法が生み出された。 

『アルノルフィニ夫妻の肖像』1434年 ヤン=ファン=アイク

作者が絵の真ん中に書き込んだ文字

    Johannes de eyck fuit hic   「ヤン=ファン=アイクここにありき」 ・現代でいえば、署名入りの写真に法的な効力があるようなもの。




西洋の宗教絵画(キリスト教美術)の寓意


どの色が使われているか、何を描いているかで西洋絵画の読み解きができる。


【色の意味】


赤=慈愛・殉教・権力

黄=異端者・邪悪さ

白=純潔・無垢

黒=禁欲・死 緑=希望・恋

青=誠実さ・悲しみ

多色、縞=社会の規範を乱す者




【描かれるものの意味】


白鳥=音楽や愛

ドラゴン=災いをもたらす邪悪な存在。異教徒。

兎=多産と色欲。聖母マリアの足元に描かれる時は色欲が純潔に打ち負かされること。

羊=純真・神への犠牲。

鳩=清純さや犠牲の象徴。平和や愛。

牛=生け贄。人類の犠牲となったイエス。

ユリ=聖母マリアの純潔を象徴する花。

バラ=愛と美。聖母マリアの純潔の象徴

ブドウ=イエスの生命の象徴。血を表す。

サクランボ=イエスの受難と聖餐(キリスト教の儀式:最後の晩餐など)の意味。


『うさぎの聖母』1530年頃 ティツィアーノ


これらの意味を知って、西洋絵画を見直すと発見があり、よく分からなかった古典絵画でも楽しめる。




ルネッサンス3大巨匠(フィレンツェ派)


ルネッサンス3大巨匠のダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラファエロとの仕事への取り組み方、人生を比較すると実に面白い。


ミケランジェロはこもりがちな性格で一途に仕事をするタイプ。ラファエロは37才位で死ぬが、社交的で社交界の花。宮廷、財閥らパトロンに引っぱりだこのナイスガイであった。ダ・ヴィンチはパトロンからの仕事も中途半端で完成させず、二人の巨匠とは正反対の生き方をしていたと言える。


ラファエロが20歳のころ、ミケランジェロは28歳、ダ・ヴィンチは51歳。短気で気難しいミケランジェロのライバルで、気立てのいい芸術家。


    ラファエロ        ミケランジェロ        ダ・ヴィンチ    



”貪欲な芸術家”彫刻家・建築家・画家ミケランジェロ・ブオナローティ 

 1475年-1564年(享年89歳)


【ミケランジェロの名言】

「どれだけの労力を注ぎ込んだかを知れば、天才なんて呼べないはずだ。」

「最大の危機は、目標が高すぎて失敗することではなく低すぎる目標を達成することだ。」

「やる価値のあることなら、たとえ最初は下手であってもやる価値がある。」

「余分の大理石がそぎ落とされるにつれて、彫像は成長する。」

「絵は頭で描くもの。手で描くのではない。」

「おおよそ完全無欠な仕事というものは、多くの小さな注意と、小さな仕事とが相集って

成る。ゆえに大事を完成するものは、細心の注意と努力。」

「ささいなことが完璧を生む。しかし、完璧はささいなことではない。」


『システィーナ礼拝堂 天井画』1508-12年 バチカン

『最後の審判』1536-41年 ミケランジェロ・ブオナローティ



”社交界の華”画家・建築家ラファエロ・サンツィオ  1483年-1520年(享年37歳)


彼は、クアトロチェント(15世紀)の多くの芸術家たちの念願だった、自然の忠実な描写ということに固執してはいなかった。彼は心に浮かぶ不変の型に意識的に従おうとした。

 ラファエロ・サンティ 『ガラテイアの勝利』



”万能の天才”レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452年-1519年(享年67歳)


イタリア・トスカーナ地方の小さなビィンチ村に生まれる。

イタリア・ルネッサンス期の三代巨匠の一人「最後の晩餐」「モナ・リザ」などで誰もが

知っている画家であるが、実は環境の観察に膨大な時間を費やしていた科学者でもある。


凡庸な人間は「注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、味わうことなく食べ、体を意識せずに動き、香りに気づくことなく呼吸し、考えずに歩いている」と嘆いていた。

「最も高貴な娯楽は、理解する喜びである。」

「あらゆる楽しみの根底には、感覚的知性を磨くという真面目な一面がある。」

 と多岐にわたり関心を持ち、絵に描いて研究していました。


遠近法(透視図法) ※消失点の発見を実証した絵

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

『最後の晩餐』1495年-1498年 レオナルド・ダ・ヴィンチ



写実絵画の発展


ルネサンス期の解剖学や絵画技法(遠近法・明暗法 etc.)、画材(油彩)の発展により、

精度の高い写実表現が可能になり、デッサンの芸術性が高まっていった。

『モナ・リザ』1503年 - 1505 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ


・スフマート技法:輪郭線をぼかすことで立体感を出す技法

 ※スフマート(sfumato)とは、境界をはっきりとした輪郭線でなく、ぼかして描く事 を

  絵画技法では指す。

・遠近法:空気遠近法

・遠近法:透視図法:『モナ・リザ』左右の風景がつながらない




フィレンツェ派とヴェネツィア派


◎「キッチリと描く」フィレンツェ派:ボッティチェリやミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、

  ラファエロなど

 ※きっちりとしてメリハリがあるのは、デッサンを重視していたから

 ※最大の魅力は知的さ:サイエンス


◎「伸び伸び描く」ヴェネツィア派:ティツィアーノ・ヴェチェッリオ

 ※デッサン(素描)をしないで、そのままキャンバスに絵具で描く方法を多用。

  明暗の調子を色彩で表現し、流動的であいまいな線によって伸び伸びとした感じや

  全体の空気感や雰囲気を表現しようとした。

 ※最大の魅力は大らかさ:感性



ルネサンス期(ヴェネツィア派)の芸術家


” 星々を従える太陽”画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1488-1576


 ・イタリア ヴェネツィア派の画家

 ・肖像、風景、古代神話、宗教などあらゆる絵画分野に秀で、絵画技法は筆使いと

  色彩感覚に特徴があり、イタリアルネサンスの芸術家だけではなく、次世代以降の

  西洋絵画にも大きな影響を与えた。


『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』1515年頃 ティツィアーノ


 サロメ(ユディトとも)を描いたこの宗教画は、彼が発展させたジャンルで

 ある理想化された女性の肖像画とされ、ヴェネツィアの高級娼婦をモデルに

 しているともいわれる。



” 革新的な画家”アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ 1489-1534


 ・主に宗教画を描いたが、晩年の神話画によって特に有名である。

 ・長命ではなかったがパルマの芸術文化において革新的かつ中心的な役割を果たし、後に

  多大な影響を与えた。

 ・パルマでの絵画制作の報酬の銅貨60枚を背負って徒歩で故郷へ帰ろうとした。

  しかし太陽の熱に打たれた熱で倒れ、そのまま回復することなく世を去った。

 

パルマ大聖堂(スペイン丸天井画)『聖母被昇天』1522-1530年



”謎に満ちた画家” ジョルジョーネ 1477-1510


・ヴェネツィアで活動したイタリア人画家

・西洋絵画の歴史のなかでももっとも謎に満ちた画家の一人。ティツィアーノの師

 だったともいわれている。

・形容しがたい詩的な作風の画家として知られているが、確実に彼の絵画であると

 見なされている作品はわずかに6点しか現存していないともいわれている。


『モーゼの火の試練』1500年頃 ジョルジョーネ



写実表現のお手本


ルネサンス期の芸術家 (ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティ ツィアーノ、コレッジョ、ジョルジョーネ、北方のデューラー、ホルバイン、その ほか数々の名高い巨匠たち)が発展させた絵画技法(遠近法 ・明暗法 etc.)が、 後世の写実表現のお手本となっている。




光と影は


立体感や奥行を伝えるための大切な要素だが、その邪魔をすることもある。

光と影には、印象を左右する“ムードメイカー(照明効果・演出)”の作用がある。


”舞台のような絵画”画家ジョルジョ・ド・ラ・トゥール 1593年-1652年

 ・フランス古典主義画家

・作風は、明暗の対比を強調、単純化

・平面化された構図や画面にただよう静寂で 神秘的な雰囲気。

 ※18世紀には忘れ去られ、20世紀初頭(1915年)に再評価され、あらためて

  注目された。

ラトゥール画『悔悛するマグダラのマリア』


※古典主義

 ・劇的なバロック様式がヨーロッパ全土に波及した 1600 年代にあっても、フランス人

  には均衡と調和を求める傾向があった。

 ・ヨーロッパでギリシャ・ローマの古典古代を理想と考え、その時代の学芸・文化を

  模範として仰ぐ傾向のこと。

 ・均整・調和などがその理想とされる。

 ・イタリアのルネサンスは古典古代を復興しようとする文化運動であった。これは各国に

  大きな影響を与えた。



バロック絵画


・バロックという語は

”真珠や宝石のいびつな形”を指す「barroco(ポルトガル語)」からきている。

・ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に急速に広まった美術・文化の様式。

・絶対王政の時代

 中世までの諸侯や貴族、教会の権力が地方に乱立し、分権的であった状態から

 王が強大な権力を持って中央集権化を図り、中央官僚と常備軍(近衛兵)によって

 国家統一を成し遂げた時代に特徴的であった政治形態を指す。

・宮廷画家の活躍



”絵で光と影の演出革命を起こした”画家カラヴァッジョ 1571年-1610年


 イタリア人画家 ・ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動。

 卓越した描写、ドラマティックな明暗、人物ひとりひとりの感情の巧みな表現は、 後世 

 の画家たちに影響を与えた。

 ローマ・カトリック教会の改革運動を背景とした革新的な表現。

 バロック美術の先駆者としての役割を果たした。

 

『聖マタイの召命』1600 年 カラヴァッジオ




”宮廷画家・外交官の成功者” ピーテル・パウル・ルーベンス 1577年-1640年


・フランドルの画家

・祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品

 を残した。

・七ヶ国語を話し、外交官としても活躍してスペイン王フェリペ4世とイングランド王チャ

 ールズ1世からナイト爵位を受けている。

・肖像、寓話、歴史、聖書など題材にとらわれない実験的な多くの自画像と作品を描いた。


『聖母被昇天』 1625 – 1626 年 ルーベンス



”王の側近“宮廷画家ディエゴ・ベラスケス 1599年-1660年


・スペインの宮廷画家

・職人→貴族

・宮廷装飾の責任者

・貴族や王の側近

※エドゥアール・マネ(印象派の父)が「画家の中の画家」と呼んだ。


『ラス・メニーナス』1656 年 ディエゴ・ベラスケス


・舞台はフェリペ 4 世のマドリード宮殿の大きな一室である。

・スナップ写真のごとく、瞬間的に切り取って、写し描いてみせた。

・スペイン宮廷人(人物も特定されている)の様子。

・観賞者と絵の登場人物との間にぼんやりした関係を創造する。




”悩めるストーリーテラー” 画家レンブラント・ファン・レイン 1606年-1669年


・ネーデルランド(オランダ)の画家

・オランダ黄金時代(17世紀のオランダを示す)のフェルメールと並ぶ代表する 一人。 ・当時、依頼されたとおりに描く絵画が求められていた中で、独自のストーリー性を重視し

 た表現が後世に評価される。

・カラヴァッジョの明暗技法を学び、「光と陰の魔術師」と呼ばれる。

・肖像、寓話、歴史、聖書など題材にとらわれない実験的な多くの自画像と作品を描いた。



集団肖像画


『フランス・バニング・コック隊長の市警団』 1642 年 レンブラント・ファン・レイン


※集団肖像画 とは

・数人から20人ぐらいまで様々な立場の人たちが、集団肖像画を依頼した。

・集団で描いてもらうため一人当たりの画料は安く済むというのが当時の集団肖像画が流行

 った最大の理由。

・一人一人が同じ料金を払うので画家はそれぞれを公平に描かなければ

 ならない。

・そのため整列した状態で描くことが多く、作品としての評価は低く面白みの無いものであ

 った。


※各人物をはっきりかつ公平に描く当時の集団肖像画の典型

ミヒール・ファン・ミーレフェルト作

『デルフトのファン・デル・メール博士の解剖講義』


レンブラント・ファン・レイン 作

『テュルプ博士の解剖学講義』 1632 年



【レンブラント自画像群】


レンブラント・ファン・レイン のライフワーク。

若い頃から最晩年まで新しい絵画表現の試みをまずは自画像制作によって実験を繰り返し

貪欲にチャレンジていた。


『自画像 』 1629年


『放蕩息子の酒宴』 1635年頃


1639年


1640年


1658年


『パレットと絵筆をもつ自画像』1662年


『聖パウロに扮した自画像』 1662年


『ゼウクシスとしての自画像 笑う自画像』 1669年


1669年





“天文学の父“ガリレオ・ガリレイ 1564 - 1642

・イタリアの物理学者

・科学者ガリレオ・ガリレイが低倍率の望遠鏡(自作の「くっ折望遠鏡」)で月のクレー 

 ター(凸凹)を発見できたのは 彼が水彩画を描くことで 陰影により奥行きや 立体を表現

 していく観察眼を身につけていた。

『月のスケッチ』 ガリレオ・ガリレイ


・芸術的な素養としての美意識を磨いている人は、サイエンスの領域でも高い知的パ フォ

 ーマンスを上げている。



”母国の郷愁を描いた画家”カミーユ・コロー 1796 -1875

あえて民族衣装をまとわせ人物画を描いた19世紀フランスの画家カミーユ・コロー。風景画を描くときも民族衣装を着た人物を画面に入れ、時代劇の一場面のような絵を描いた。 母国の文化を大切に思い、現代人が自分たちのルーツを忘れないように努力した。


・新古典主義、写実主義、バルビゾン派の画家

・風景画家として名を馳せたが『真珠の女』のような肖像画の傑作も残している。

『真珠の女』1870年 カミーユ・コロー


・見たままの自然を描いているのに、そこに登場する人物は民族衣装を着ているのも特徴の

 1 つ。こうした演出によって、鑑賞者は、自然の風景を見ているだけなのにまるで時代劇

 の舞台を見ているかのような感覚におちいる。

『モルトフォンテーヌの思い出』1864 年 カミーユ・コロー




”理想よりも現実を描いた”画家ギュスターヴ・クールベ 1819-1877


・フランスの写実主義の画家。

・新古典主義やロマン主義と対立した写実主義の創始者。

・名も知れない庶民の葬式を、威厳をもって描き、当時の美術界に衝撃を与えた。

・「目に見えるものしか描かない。」

『黒い犬を連れた自画像』1842 年 ギュスターヴ・クールベ


『オルナンの埋葬』1849 年 ギュスターヴ・クールベ


『出会い(こんにちは、クールベさん)』1854 年 ギュスターヴ・クールベ




”保守と革命が共存する画家”画家エドゥアール・マネ 1832-1883


・フランスの画家。

・理想化された人々や癒しの風景ではなく、19 世紀当時の「現代社会」そのものを描 いた

 最初の画家の 1 人。

・ブルジョワ出身にもかかわらずレールに乗った人生を歩むのでなく、絵の世界に没頭し

 た。

・印象派の父

・伝統的な明暗法や遠近法といった絵画技法にとらわれない平坦な作風が特徴。


『バルコニー』 1868-9 年 エドゥアール・マネ


マネが参考にした『バルコニーのマハたち』 1810-15 年 フランシスコ・ゴヤ


マネの新しい理論

・戸外の光のもとでの色の扱いを問題にした「外光派」。

・動くものの形という問題にも取り組んだ。

『ロンシャンの競馬』リトグラフ 1865 年 エドゥアール・マネ


・混乱の中から浮かび上がってくる形らしきものを示すことで、光と速度と運動を印象づけ

 ようとしている。

・マネは物の形を再現するのに、知識に頼ることを強く拒否した。

・一瞬の「真実」を描いた。

・こんな時に馬の4本の脚、観客の様子などいちいち目に入らないものだ。

・現実の場面では、どの瞬間をとっても私たちの目にはひとつの点に集中していて、それ

 以外の物は、ばらばらな形の寄せ集めにしか見えない。

『ボートの上で写生するモネ』 1874 年 エドゥアール・マネ


・自然の中の「モチーフ」は、雲が陽をさえぎったり、風が水に映る影をゆがめたりするた

 びに、刻々と変化する。

・これぞという局面をとらえようとすれば、絵具を混ぜて調合したり、何層も重ね塗りを

  したりする暇はなく、すばやい筆さばきが必要になる。

・細部よりも全体の効果に気を使うことになる。

・完成とは言い難い、一見ぞんざいな画風が、批評家たちを怒らせた。

・異端的な絵は、どうしても「サロン」に受け入れてもらえなかった。


『笛を吹く少年』1866年 エドゥアール・マネ


ブルジョワ出身であるマネは、古典芸術や芸術家、特にベラスケスやゴヤなどスペインの巨匠たちに強い尊敬の念を抱いていた。マネが描いた『笛を吹く少年』は、ベラスケスの描いた肖像画に感銘を受けて描いたもの。

また、平面的で明快な色使いなど浮世絵の影響を受けて、斬新な表現を取り入れている。

『ビードロを吹く女』1790-91年 喜多川歌麿



印象派の勝利に導いた二つの援軍


◎ヨーロッパ絵画の基本法則が大胆に無視されている日本の浮世絵 ・モチーフや色使いな

 どヨーロッパの画家が、伝統をどれほど背負わされているかがわかった。

◎「写真」の普及 ・画家たちを独自の探求と実験に駆り立てた。カメラは、ふとした一瞬

 の情景のもつ魅力や、思いがけない方向から見た面白さなどに気づかせてくれた。画家

 たちは写真が太刀打ちできない領域を探らざるをえなくなった。


※写真では写せない絵を描こうとした新古典主義の画家ドミニク・アングル。

『グランド・オダリスク』 1814 年 ドミニク・アングル



絵でしか描けないプロポーション


横たわる全裸の美女という構図は、伝統的に画家に好まれ描かれているポーズだが、写真では表現できないインパクトを出すために、極端に大きく捻じ曲げたうなじと背中を描いた。解剖学に精通していたアングルだからこそ、伝統的なテーマである裸婦の理想的な美しさのバランスを壊さずに描いている。

新古典主義の画家アングルにしかできない絵画表現と、写真とは異なる写実絵画を追求したのです。この絵は批評家や美術愛好家たちには理解されず、大きな批判を浴びましたが、アングルは時代に挑戦しつづけた。



サイエンスに刺激された印象派の画家


画家エドガー・ドガは、アングルを尊敬し写実主義を主張しながらも、写真の構図を取り入れた絵画表現や新しい題材を探求していった。その後も写真技術や映写機などといったサイエンスの進歩に刺激された画家たちによって、新しいアートは花開いていった。



”現実の社会を描く画家”エドガー・ドガ  1836-1917


・フランスの画家。

・マネを中心とする印象派グループ「カフェ・ゲルボワ」に参加していたが、古典的 な

 画風を目指した。

・室内から戸外まで多く描き残しているが、バレエを題材にした絵が有名。

・晩年は目の病気を患って視力が弱くなり、油絵より画面に目を近づけて描けるパステル画

 の制作が多くなった。

『オーケストラ席の音楽家たち』1870 年 エドガー・ドガ


・ドガは観客としてバレエの舞台で舞う踊り子の姿を観るのではなく、舞台裏の「バ レエ

 界の真実」を描こうとした。

・画面の中央で美しく優雅に舞う花形バレリーナに対し、そのまわりにいるライバルである

 踊り子たちの表情からは競争、嫉妬となどが感じられる。

・踊り子たちを援助しているパトロンたちの姿もあり、様々な人間模様が垣間見られる。

・そんな練習中の舞台の袖からドキュメンタリー映像のような視線で真実を描いた。


『三人の踊り子』1873年 エドガー・ドガ


『ダンス教室(バレエ教室)』1873 年-1875 年 エドガー・ドガ


『出番を待つ踊り子たち』1879 年 エドガー・ドガ


ドガの絵に物語はない


踊り子たちのかわいさや、少女たちの醸し出す雰囲気が気に入っていたのでもなく、 風景として客観的な目で冷静に眺めた。彼にとって大事だったのは、光と陰の交錯する人体であり、運動や空間の感じをどう表現するのかだった。



”移りゆく一瞬の光をとらえた画家”クロード・モネ 1840-1826


・フランスの印象派を代表する画家。

・日本美術の影響が見られる作品も多い。

・特に19 世紀末の作品は、葛飾北斎などの浮世絵に着想を得たと思われるものが多数残さ

 れている。

・晩年は白内障を患いながらも絵を描き続けた。

・モネはターナーの作品を知っていた。


『サン・ラザール駅』1877 年 クロード・モネ



風景画のモネ、人物画のルノワール


印象派の画家であるモネとルノワールは長生きしたおかげで、パリに生まれた新しい絵画表現を世界的に知らしめた勝利の成果を晩年にたっぷり味わい、尊敬されるようになった。

若きモネたち、才能ある印象派画家が描く絵を当時、憤慨し嘲笑していた批評家たちは自分たちのいい加減さを証明し、美術批評は権威を失う破目になり、二度と失地を回復することはなかった。

『印象・日の出』1872年 クロード・モネ



若き二人の作品は売れず生活は困窮していたが互いに助け合う日々を過ごしていた。その頃、芸術家にとっては公式美術展覧会サロン・ド・パリで入選することが憧れだったが、古き慣習と権威を守ろうとする美術批評は美術の革命家といえる若き画家たちが描く絵に憤慨し嘲笑して認めようとはしなかった。

そんなサロンに対抗して、モネら画家たちが1874年にグループ展を開催したが、出品された絵は「勉強不足だ」「未完成だ」などと酷評された。


印象派の最初の頃の展覧会を取り上げた、ジャーナリズムの論評


“ペルティエ通りは御難つづきである。オペラ座の火事の後、新手の災難の登場だ。デュラン=リシェル画廊で展覧会が始まったばかりだが、主催者によれば中身は絵画だという。中へ入ると、私は恐ろしいものを目にしてすくみ上った。女性ひとりを含む5、6人の頭のおかしい連中が集まって、自分たちの作品を展示している。人びとは絵を見て大笑いしていたが、私の心は痛んだ。彼ら、画家気取りの連中は、自分たちのことを革命家と称し、「印象派」だと公言している。連中ときたら、カンヴァスと絵具と筆を用意し、カンヴァスの上にあちこち出鱈目に絵具を塗りたくって、はい、出来上がり、と署名する。精神病の患者が道端で石ころを拾って、ダイヤモンドを見つけたと思いこむのに似た錯覚である。”


絵に印象しか描かれていないと感じた批評家ルイ・ルノワは、侮辱的な意味でモネの絵のタイトル「印象派」を引用して「印象派たちの展覧会」という記事を書いた。しかし、モネたちは自分たちを表す言葉として自ら使うようになる。

そんな中、モネとルノワールは互いに才能を認め合い、スケッチ旅行を共にするなどして絵画表現を磨き続けた。