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想いの可視化

  • 執筆者の写真: sfumita7
    sfumita7
  • 3 日前
  • 読了時間: 22分

更新日:5 分前




[アートは人間の代用といった考え方]


古代エジプトでは、王の死には廻りの者達が生け贄(生きたまま埋葬)になるという残酷な慣習があった。

生け贄の慣習の代用(副葬品)としてアートは始まった。


シャプティ
シャプティ
エジプト石室壁画
エジプト石室壁画

[美の追求ではなかった古代エジプトの壁画] 


一見 稚拙な表現にみえるが、生物学者が納得するほど正確な特徴が描かれていて、

生息を証明する重要な資料になっている。

古代から絵を描くことは、日常的な伝達手段、記録手段として活用されていた。


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[エジプト絵画のルール]


身分の高い人ほど大きく描く。

小さいのは子供ではなく低い身分や奴隷たち。

顔は横顔とする、目は正面を向く。

肩、胸、腕は正面を向け胴体と足は横向き。

足は左右を描き分けない。

土踏まずを描く場合には、両足に描く。

集団は上下左右にずらし重ねて描く。

奥行き(遠近法)はひたすら重ねて描いて表現する。


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古代エジプト壁画
古代エジプト壁画

[死者の書]


古代エジプト人は、死後の世界に対して独特の関心を持っていた。

古代エジプト人ほど「永遠」という言葉を好んだ民族はないといわれる。

かれらの死後の世界を描いたのが『死者の書』。


『死者の書』
『死者の書』

のちのユダヤ教、キリスト教の「最後の審判」に影響をあたえた。


『最後の審判』中世時代   ジョット・ディ・ボンドーネ
『最後の審判』中世時代 ジョット・ディ・ボンドーネ
『最後の晩餐』12世紀 中世時代
『最後の晩餐』12世紀 中世時代


[ヨーロッパ中世時代、ペストで大勢の庶民が死んでいった理由] 


教会はフレスコ画、ステンドグラスなど最先端の技術が駆使された現代でいうハイテクビル。 キリスト教布教のため十字軍の進撃とともに猛烈な勢いで教会が建設され建材として山の木が切り倒され、住処を失ったネズミが街へなだれ込んだ。


ドゥオーモ
ドゥオーモ
ドゥオーモのステンドグラス
ドゥオーモのステンドグラス


[リーダーシップを発揮した画家]


アートの暗黒時代ビザンチン、宗教のために美術が利用された時代から

人間本来の姿に関心を向けたルネサンスに繋げていった画家ジョット・ディ・ボンドーネの功績は大きい。

大きな流れに沿いながらも信じる方向性を徐々に示していった。


『キリストの哀悼 The Mourning of Christ』  1305年 ジョット・ディ・ボンドーネ
『キリストの哀悼 The Mourning of Christ』 1305年 ジョット・ディ・ボンドーネ
ジョット・ディ・ボンドーネ『エジプトへの逃避』1315年-1320年 サン・フランチェスコ聖堂
ジョット・ディ・ボンドーネ『エジプトへの逃避』1315年-1320年 サン・フランチェスコ聖堂


[描いた絵が大理石に代わるフレスコ画]


石灰と川砂を混ぜたモルタルが乾く前に描くので表面ににじみ出た石灰が被膜となり

大理石化するので色が退色しにくくフレッシュ。

だから、語源はイタリア語の "fresco" (新しい、新鮮な)という意味。


『最後の審判』ミケランジェロ
『最後の審判』ミケランジェロ
『リビヤの巫女』1510年頃 ミケランジェロ
『リビヤの巫女』1510年頃 ミケランジェロ


[イタリア ルネサンスの巨匠 三者三様]


ミケランジェロはこもりがちな性格で一途に仕事をするタイプ。

ラファエロは37年ほどの生涯だったが社交的で社交界の花。宮廷、財閥らパトロンに引っぱりだこのナイスガイで、

ダ・ヴィンチはパトロンからの仕事も中途半端で完成させず、二人とは正反対。


ミケランジェロ・ブオナローティ
ミケランジェロ・ブオナローティ
バチカン システィーナ礼拝堂 『最後の審判』ミケランジェロ
バチカン システィーナ礼拝堂 『最後の審判』ミケランジェロ
『ダヴィデ像』 ミケランジェロ
『ダヴィデ像』 ミケランジェロ
ラファエロ・サンティ
ラファエロ・サンティ
『アテナイの学堂』(1509年 - 1510年) ラファエロ・サンティ ヴァチカン宮殿ラファエロの間
『アテナイの学堂』(1509年 - 1510年) ラファエロ・サンティ ヴァチカン宮殿ラファエロの間
レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチ

「最も高貴な喜びとは、理解する喜びである」と語るレオナルド・ダ・ヴィンチは、

凡庸な人間は「注意散漫に眺め、聞くとはなしに聞き、感じることもなく触れ、味わうことなく食べ、体を意識せずに動き、香りに気づくことなく呼吸し、考えずに歩いている」と嘆き、

あらゆる楽しみの根底には感覚的知性を磨くといった真面目な目的があると提唱していた。



[名馬に癖あり]


「最後の晩餐」「モナ・リザ」などで誰もが知っている画家ですが、それは彼の単なる一面であり、環境の観察に膨大な時間を費やしていた科学者でもある。

日本では天才や学者の代名詞のように扱われているダ・ヴィンチだが、西洋ではその多彩な才能から様々なゴシップ(噂)で騒がれていた。



[大天才のざんねんな一面]


多岐にわたり才能を発揮して探求心を持ち続けたダ・ヴィンチですが、地位や名誉、世間の目や評価には関心がなかったようです。依頼された大切な仕事の期限を守らず、飽きっぽく途中で投げ出してしまうほどいい加減な一面があった。

彼の工房で修行をする弟子たちに対しても教育熱心ではなかったようで、意外にも尊敬される師匠ではありませんでした。どちらかというと気分屋でマイペースのいい加減なアウト人間として、弟子からはバカにされていた。



[絵(平面)に奥行をみせる技法]


遠近法には、透視図法や空気遠近法、ものの重なりで奥行をみせていく 吹抜け屋台などの技法があり、これらを複合的に使うと効果的です。

レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『モナリザ』は遠近法を複合的に使った絵の見本です。


『モナ・リザ』1503 - 1505 1507年  レオナルド・ダ・ヴィンチ
『モナ・リザ』1503 - 1505 1507年 レオナルド・ダ・ヴィンチ


[最後の晩餐]


ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれている遠近法(一点透視図法)を完璧に実証している絵。

その消失点であるキリストのこめかみには穴が空いている。

ダ・ヴィンチはこの穴からひもを引っ張り作図した。


サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂
『最後の晩餐』1495-97年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
『最後の晩餐』1495-97年 レオナルド・ダ・ヴィンチ
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[遠近法的思考]


絵画好きの哲学者ニーチェは、近くのものが大きく見える遠近法を思考的に捉えて

目の前の対象物や出来事の見る位置を変えると感じる大きさが変わるといった考え方を提唱する。

ストレスに感じることは違う方向から見直してみると良い。


【遠近法的思考】
【遠近法的思考】

[黄金比]


安定感の感じ方は東西、共通らしい。

黄金比 1:1.618、約5:8の長方形。この比率はギリシャ彫刻や絵画に使われているが、 

最も安定したバランスのいい比率として、

金閣寺やパルテノン神殿の建造物、ピラミッドにも使われている。


黄金比
黄金比


写真のように写し描くことが写実ではない。

様々な記録情報、更に対象物に関する記憶がブレンドされて描かれたものが写実絵画。

写実絵画は、記録と記憶のハイブリットによって生まれる。



[自分は芸術界の救世主]


自画像にイエス・キリストのテイストを盛り込んで描いた写実絵画の巨匠デューラー。

絵画は写真のように見たままを写すのではなく、視点をもって情報をブレンドして描かれている。

絵は万能な情報伝達ツール。


『自画像』 1500年  アルブレヒト・デューラー
『自画像』 1500年 アルブレヒト・デューラー
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キリスト教美術のルール]


宗教絵画
宗教絵画

白鳥=音楽や愛 

ドラゴン=災いをもたらす邪悪な存在。

異教徒 兎=多産と色欲。聖母マリアの足元に描かれる時は、色欲が純潔に打ち負かされること。

羊=純真・神への犠牲 鳩=清純さや犠牲の象徴。平和や愛

牛=生け贄。人類の犠牲となったイエス

ユリ=聖母マリアの純潔を象徴する花 

バラ=愛と美。聖母マリアの純潔の象徴

ブドウ=イエスの生命の象徴。血を表す

サクランボ=イエスの受難と聖餐(キリスト教の儀式:最後の晩餐など)を象徴


『うさぎの聖母』1530年頃 ティツィアーノ
『うさぎの聖母』1530年頃 ティツィアーノ

どの色が使われているかで、キリスト教絵画の読み解きができる。


赤=慈愛・殉教・権力

黄=異端者・邪悪さ

白=純潔・無垢

黒=禁欲・死

緑=希望・恋

青=誠実さ・悲しみ 多色、

縞=社会の規範を乱す者



宗教絵画
宗教絵画


[バベルの塔]


ブリューゲルの絵はいつも壮大で、日常と幻想のハイブリットなので速攻でわくわくする。この絵を初めて観たのは小学校の教科書。

横山光輝の漫画『バビル2世』が大好きだったので親近感もあったせいか

一目でその世界観の虜にされた。


『バベルの塔』 1563年 ピーテル・ブリューゲル
『バベルの塔』 1563年 ピーテル・ブリューゲル


[リアリズム]


写実絵画とは、見えているものだけをそのまま描き写すことではない。

描かれているモチーフ・モデルのもつ歴史的背景や性質までも読み解いて

理解したことを描いているといえる。

好奇心と思いのハイブリット。

書物や映画の翻訳家が、その国の言葉と文化をどれくらい知っているか

どれだけ好きかが重要なことと同じ。


『牛乳を注ぐ女』1658年 ヨハネス・フェルメール
『牛乳を注ぐ女』1658年 ヨハネス・フェルメール

モチーフをただ写し描くことが写実ではない。

光の入り方、その時間帯、季節など モチーフを取り巻く世界をどれだけ広くイメージできるかが重要。

その視野の広さで画面から伝わるリアリティーが違ってくる。




[ムードメーカー]


光と影には立体感を出す効果だけではなく、印象を左右する“ムードメイカー”としての作用がある。

カラヴァッジョ画『聖マタイの召命』やラトゥール画『悔悛するマグダラのマリア』などの

光と影の扱い方をみると納得。


『聖マタイの召命』1600年 カラヴァッジオ
『聖マタイの召命』1600年 カラヴァッジオ
『悔悛するマグダラのマリア』 ラトゥール
『悔悛するマグダラのマリア』 ラトゥール


[人生も作品も劇的な画家カラヴァッジオ


絵の才能のおかげで免罪されても

その気性の荒さからまた罪を犯し、

逃亡生活の中で歴史に残る作品を描き続けた画家。


『洗礼者聖ヨハネの斬首 』 1608年
『洗礼者聖ヨハネの斬首 』 1608年
『ゴリアテの首を持つダビデ』(1609年 - 1610年)
『ゴリアテの首を持つダビデ』(1609年 - 1610年)
『ホロフェルネスの首を斬るユディト』1598年 - 1599年 カラヴァッジオ
『ホロフェルネスの首を斬るユディト』1598年 - 1599年 カラヴァッジオ
『アレクサンドリアの聖カタリナ』 1595-96年頃 カラヴァッジオ
『アレクサンドリアの聖カタリナ』 1595-96年頃 カラヴァッジオ
『果物籠』 1596年 カラヴァッジオ
『果物籠』 1596年 カラヴァッジオ
『果物籠を持つ少年』1593年 - 1594年 カラヴァッジオ
『果物籠を持つ少年』1593年 - 1594年 カラヴァッジオ
『トランプ詐欺師』1594年頃 カラヴァッジオ
『トランプ詐欺師』1594年頃 カラヴァッジオ


[絵を読み解くと面白い]


バロック時代の宮廷画家ベラスケス。

その地位は、画家という職人から宮廷装飾の責任者、 貴族や王の側近(権力を誇示するためのアートプロデューサー)にまで出世した。

王家の隠された真実を絵画の中に描き残している。


『ラス・メニーナス :女官たち』 1656年 ディエゴ・ベラスケス
『ラス・メニーナス :女官たち』 1656年 ディエゴ・ベラスケス

王女の遊び相手の道化に踏まれても我慢している忠実を表す犬は、宮廷画家ベラスケス自身。御むずかりの王女をあやす女官たち。画面奥の鏡に王女を見守っている王妃夫妻が映っている。王家の日常と真実の姿を絵画の中に描き残している。




『白い服の王女マルガリータータ王女 5歳』 1656年 ディエゴ・ベラスケス
『白い服の王女マルガリータータ王女 5歳』 1656年 ディエゴ・ベラスケス
教皇イノケンティウス十世  1650年 ディエゴ・ベラスケス
教皇イノケンティウス十世 1650年 ディエゴ・ベラスケス


[絵はコミュニケーション ツール]


今でいう売れっ子デザイナーだったバロック時代の宮廷画家ルーベンスは、語学にも堪能で国同士のいざこざを解決する外交官でもあった。

国交の相手が喜ぶテーマで絵を描いて贈与するなどアートを国際交流に活用していた。

絵はコミュニケーション ツールでもあり、その能力を磨く教材でもある。


『自画像』1639年頃 ルーベンス
『自画像』1639年頃 ルーベンス
『マリー・ド・メディシスの生涯』 1621-1625年
『マリー・ド・メディシスの生涯』 1621-1625年

宮廷画家であり、優秀な外交員でもあったルーベンスを悩ましていた病は痛風。

王侯並みの生活が原因だったのか贅沢なパーティーや食事会の数も多かったのだろう。



[バロック絵画は広告を目的とした大看板]


インパクトを持たせるためにビジュアル技法が研究されていった。

映画のデジタル化、3D化と同じ誇張と歓喜。

バロック絵画は当時の最先端技法を使った広告塔。

現代のハリウッド映画のようなもの。


『マリー・ド・メディシスの生涯:マリーのマルセイユ到着』1622-25年 ルーベンス
『マリー・ド・メディシスの生涯:マリーのマルセイユ到着』1622-25年 ルーベンス



[集団肖像画]


バロック時代、画家はクライアントの依頼に忠実なデザイナーだった。


ミヒール・ファン・ミーレフェルト(en)の『デルフトのファン・デル・メール博士の解剖講義
ミヒール・ファン・ミーレフェルト(en)の『デルフトのファン・デル・メール博士の解剖講義
『テュルプ博士の解剖学講義』 1632年 レンブラント・ファン・レイン
『テュルプ博士の解剖学講義』 1632年 レンブラント・ファン・レイン


[バロック時代の画家レンブラント]


集団肖像画の『フランス・バニング・コック隊長の市警団』は問題作。

作者のレンブラントに勝手なストーリーをつくられて

同じ代金を支払っている依頼者(描かれている人物)の扱いが不公平だといった理由で

依頼者たちに訴えられ、この作品がきっかけで落ち目になった。


『フランス・バニング・コック隊長の市警団』 1642年  レンブラント・ファン・レイン.jpg
『フランス・バニング・コック隊長の市警団』 1642年 レンブラント・ファン・レイン.jpg

画家レンブラントは、独自の創作の道を歩むアーティストの先駆者。



[絵画表現の探求と仕事]

 

傲慢さで力を封じ込めないように、人との関わりの中で揉まれながら探求し

成長し続けているから仕事力と幸福感が持続する。

バロックの巨匠レンブラントは不運が続き、独り閉じこもることで

絵画表現への貪欲な探求は続いたが、仕事を失っていった。



『自画像』1640年 レンブラント
『自画像』1640年 レンブラント
『放蕩息子の酒宴』1635年頃 レンブラント
『放蕩息子の酒宴』1635年頃 レンブラント
『ゼウクシスとしての笑う自画像』1669年 レンブラント
『ゼウクシスとしての笑う自画像』1669年 レンブラント



[17世紀バロック時代の静物画]


この時代の静物画は、物の意味(寓意)の要素が濃く、人生の寓意画として描かれている。

リュートは聴覚

パンは味覚

巾着は触角

花は嗅覚

鏡は視覚

とそれぞれ五感を象徴して描かれている。


バロック時代の寓意画
バロック時代の寓意画


西洋(バロック絵画)は、宗教、歓喜、誇張、躍動を描いた。


『聖母被昇天』1625年 - 1626年 ルーベンス
『聖母被昇天』1625年 - 1626年 ルーベンス

 

日本(絵巻物)は、生活、季節、時間(経過)、抒情を描いた。

現在のアニメ・漫画のルーツ。


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『鳥獣戯画絵巻』
『鳥獣戯画絵巻』




[発見]


ニュートンが光によって色が見えることを発見した。

大半の人々はリンゴが地面に向かって落ちること(万有引力)も

闇で色が見えない(認識できない)ことも

当たり前のこととして疑問に思わないで過ごしていた。

ニュートンが気づくまで、庶民は深く追求することはなかった。


ニュートンのプリズム実験
ニュートンのプリズム実験

[色についての気づき]


物理学者ニュートンが「色は光によってみえる」といったもので、その後バウハウスのヨハネス・イッテンがまとめたものが有名。

だが、ゲーテは「闇にも色がある」と感情や精神の視点から色を研究しており、

その少数派の色彩理論をシュタイナーが引き継いで研究していて面白い。


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シュタイナー黒板絵
シュタイナー黒板絵
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ゲーテ
ゲーテ

人によって色の認識が違うことにゲーテは気づき、

ダ・ヴィンチは人体の魅力を解剖によって発見し、

画家のコローは光の演出によって奥行きを具体的に設定できることなどに

気づくまで庶民は、何の疑問も持たないで”普通”のこととして見過ごしていた。


『ウィトルウィウス的人体図』 1485年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ アカデミア美術館(ヴェネツィア)
『ウィトルウィウス的人体図』 1485年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ アカデミア美術館(ヴェネツィア)
『モルトフォンテーヌの思い出』1864年 カミーユ・コロー
『モルトフォンテーヌの思い出』1864年 カミーユ・コロー

[文化の継承]


あえて民族衣装をまとわせ人物画を描いた19世紀フランスの画家コロー。

風景画を描くときも民族衣装を着た人物を画面に入れ、時代劇の一場面のような絵を描いた。

母国の文化を大切に思い、現代人が自分たちのルーツを忘れないように努力した。


『真珠の女』1870年 カミーユ・コロー
『真珠の女』1870年 カミーユ・コロー


[オフィーリア]


シェイクスピアの戯曲に登場するオフィーリアが描かれた絵。

背景の中に描写される草花には象徴的な意味が込められている。


ヤナギは見捨てられた愛、

イラクサは苦悩、

ヒナギクは無垢、

パンジーは愛の虚しさ、

首飾りのスミレは誠実・純潔・夭折(ようせつ:若死に)、

ケシの花は死を意味している。




『オフィーリア』 1851-52年 ジョン・エヴァレット・ミレー
『オフィーリア』 1851-52年 ジョン・エヴァレット・ミレー


家族で小さな花壇を造った。頭の中が整理されていく充実した時間だった。


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田舎のバルビゾン村とその生活者を描き続けた(伝えた)絵描きのミレー。

この画家、ただの田舎者ではない。


『落穂拾い』1857年 ジャン=フランソワ・ミレー
『落穂拾い』1857年 ジャン=フランソワ・ミレー

ヨーロッパでロマン主義と産業革命が18世紀に起こって、絶対王政から市民が解放されたとはいっても庶民の生活は劣悪だった。

大企業は潤っても都市で働く庶民の平均寿命は15年(古代エジプトより短い)だった。


[ロマン主義]


「ロマン」とはロマンティックではなく

「ローマ帝国の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」 という

「ローマン(ローマの人)」といった意味。

この時代は絶対王政が終わり産業革命が起こり、民衆が力を持ってきた。


『民衆を導く自由の女神』 1830年 ウジェーヌ・ドラクロワ
『民衆を導く自由の女神』 1830年 ウジェーヌ・ドラクロワ

バルビゾン派と呼ばれる画家たちは、ただ田舎暮らしを楽しみたい人たちではない。

都会の下らない権威や醜い争いから離れ

人間本来の生き方を正しく見直そうとした賢者たち。


『種まく人』1850年 ジャン=フランソワ・ミレー 1850-51年サロン入選作
『種まく人』1850年 ジャン=フランソワ・ミレー 1850-51年サロン入選作


目にはみえないが大切な情報を伝えるために対象をデフォルメする。

解剖学的に人間の構造として、実際にはありえないポーズ、ありえない骨格。

でもそんな現実にとらわれない創造的なバランスと伝えたい”思い”の強さが

手描きの絵には込められる。


『グランド・オダリスク』 1814年 ドミニク・アングル
『グランド・オダリスク』 1814年 ドミニク・アングル



19世紀 印象派の時代


その時代の文明と文化とは関連しあって変化している

チューブ入り油絵具、写真技術、電球、電話の発明。

電気で明るく照らされたアトリエ、 絵具チューブをもって野外で油絵を描けるようになり色が輝きだした。

この発明が、輝くような色使いをする印象派の画家たちを生んだといってもいい。


『ボートの上で写生する』1874年エドゥアール・マネ
『ボートの上で写生する』1874年エドゥアール・マネ
『ラ・グルヌイエールにて(La balançoire)』 1869年 ピエール=オーギュスト・ルノワール
『ラ・グルヌイエールにて(La balançoire)』 1869年 ピエール=オーギュスト・ルノワール


[印象派絵画の色の輝き:筆触分割

 

印象主義の画家たちが用いたの絵画技法である。

筆で絵具を引っ張らずにのせている(塗るのではなく置いている感覚)。

パレットの上で混色しすぎないでキャンバスの上で重ねながら色を造っているので

純色に近い発色を保っている。光と色にこだわっていた絵描き技。


『ムーランド・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』1876年 ピエール=オーギュスト・ルノワール
『ムーランド・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』1876年 ピエール=オーギュスト・ルノワール

光に照らされて明るい部分の色は”白い”のではなく“鮮やか”にみえる。

いわゆる発色がよく、彩度が高い。絵具は混色することで彩度が下がる。

印象派の画家たちは純色を置くようにキャンバスに重ねていった。

だから色に光を感じる。


『睡蓮(Nymphéas) 』1916年 クロード・モネ
『睡蓮(Nymphéas) 』1916年 クロード・モネ


画家のオディロン・ルドンは、鮮烈な色彩で花を描いた。

若い頃は印象派の色彩表現に惹かれながらも

あえてモノクロの版画を利用し想像力を磨いた。

ルドンが色を使い出したのは、50歳を過ぎてからである。


『「起源」 Ⅲ. 不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた』 1883年[3]
『「起源」 Ⅲ. 不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた』 1883年[3]
『眼=気球』 1878年 オディロン・ルドンニューヨーク近代美術館
『眼=気球』 1878年 オディロン・ルドンニューヨーク近代美術館
『森の精神』1880年 オディロン・ルドン
『森の精神』1880年 オディロン・ルドン
『成分:花』
『成分:花』
『花瓶の花』1912年-1914年 オディロン・ルドン
『花瓶の花』1912年-1914年 オディロン・ルドン
『パンドラ』 オディロン・ルドン
『パンドラ』 オディロン・ルドン

クリエイターの発想の源にジャンルの隔たりはない。

神話の世界が好きだった画家オディロン・ルドンは 植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられ、 その出会いが画風にも影響していく。

同時代(印象派)の画家たちの絵が注目されていることや流行は関係なかった。

個性とは環境に造られていく。氾濫する情報からの選択眼が重要。


『キュクロプス』1914年 オディロン・ルドン
『キュクロプス』1914年 オディロン・ルドン


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印象派の父といわれる画家マネのスキャンダルをまねいた作品『オリンピア』。

斬新なテーマは、進歩と伝承することの選択の判断を誤解されてしまうことがある。

本当に伝えたいことは、なかなかその本意が伝わらない。


『オランピア』1863年 エドゥアール・マネ
『オランピア』1863年 エドゥアール・マネ


追い求めたいといった執念が感覚を鋭くする。 

印象派の画家ドガ。 彼は晩年、視力をほとんどなくしながらも経験と記憶で絵具の色の違いを 嗅覚で嗅ぎ分けて描いた。


『浴盤』1886年 エドガー・ドガ
『浴盤』1886年 エドガー・ドガ


印象派の画家たちは失業者だった。

19世紀に写真が発明され、それまで依頼されてきた肖像画、風景画などの仕事が減少し職を失った。

クライアントがいないのだったら自分が好きなもの、家族や友人、信じる絵を追求しようということになる。


『サマリー夫人』1877年ルノワール
『サマリー夫人』1877年ルノワール
『シャルパンティエ夫人とその子どもたち(フランス語版)』1878年 ピエール=オーギュスト・ルノワール
『シャルパンティエ夫人とその子どもたち(フランス語版)』1878年 ピエール=オーギュスト・ルノワール


パリのポンピドーセンターで紹介されているアート年表では

アメリカのポップ・アートなどの活動は

単なるローカルアートとしてしか紹介されておらず、

「アートの王道はヨーロッパから動かない」

と言わんばかりの解説にパリのプライドを感じる。


バトー・ラヴォワール(洗濯船)
バトー・ラヴォワール(洗濯船)



[近代絵画]


それまでの絵を描く目的、題材が宗教や権威、権力といった限られたものから

印象派の画家たちによって、単に庶民的になったということだけではなく、

描くモチベーションの幅が宇宙での出来事まで一気に広がっていき、

画期的な発展を遂げている。


低『星月夜』1889年 6月、サン=レミ ファン ゴッホ
低『星月夜』1889年 6月、サン=レミ ファン ゴッホ

人のために役立ちたかったフィンセント・ファン・ゴッホ。

牧師をしていたが、情熱だけでは経済的にも組織の一員としても

上手く生きていけなかった。

画家に転身して、人のためになろうとしたが気持ちと情熱だけでは、

弟テオと友人ゴーギャン以外は理解してくれなかった。


『ひまわり』1888年8月、アルル フィンセント・ファン・ゴッホ
『ひまわり』1888年8月、アルル フィンセント・ファン・ゴッホ

人や物事は色んな側面を持つ。

情熱の画家ゴッホの遺作『花咲くアーモンドの枝』。

生命力にあふれる『ひまわり』の絵で有名なゴッホは、

彼を支えてくれた弟テオの生まれたばかりの息子のために

春を待つかわいい希望の花を最後に描いて亡くなった。


『花咲くアーモンドの木の枝』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ
『花咲くアーモンドの木の枝』 1889年 フィンセント・ファン・ゴッホ

フィンセント と テオの墓、オーヴェルス・シュール・オワーズ
フィンセント と テオの墓、オーヴェルス・シュール・オワーズ


[素朴派の画家]


独学で絵を描いていた画家たちは”素朴派”と呼ばれた。 

画家になる前にゴッホは牧師だった。

ゴーギャンは25歳頃までは株の仲買人。

ルソーは税理士で世に出ている作品は50歳過ぎに描いたもの。

歴史に残る画家は特別な才能があったということより

”絵で伝えたい”といった モチベーションが極めて高かったといえる。


『包帯をしてパイプをくわえた自画像』1889年 ファン・ゴッホ
『包帯をしてパイプをくわえた自画像』1889年 ファン・ゴッホ
『自画像』 1889–1890年 ポール・ゴーギャン
『自画像』 1889–1890年 ポール・ゴーギャン
『私自身、肖像=風景』1890年 アンリ・ルソー
『私自身、肖像=風景』1890年 アンリ・ルソー

何のために描くのか、その思いが心に響く。

日曜画家だったアンリ・ルソー、世界的に知られる名画はすべて50才過ぎに描いた作品。


『フットボールをする人々』1908年 アンリルソー
『フットボールをする人々』1908年 アンリルソー
『熱帯嵐のなかのトラ』 アンリ・ルソー
『熱帯嵐のなかのトラ』 アンリ・ルソー

[絵は情報のブレンド]


個性は環境と選択してきた情報の蓄積で創られる。

画家ルソーの絵は本当に体感してきたようなリアルさがあるが、

ジャングルの絵も動物の写真集と近くの植物園でのスケッチと実際に旅行してきた知人の体験談を聞いて、その情報を組み合わせて描いた。

彼はジャングルや異国に行って、実際に体感して描いたわけではない。


『蛇使いの女(The Snake Charmer),』1907年 アンリ・ルソー
『蛇使いの女(The Snake Charmer),』1907年 アンリ・ルソー

日曜画家のルソーが世に出る前、モンマルトの画家たちは、へたくそと馬鹿にしていた中

彼の才能を認めていたのがパブロ・ピカソ。


パブロ・ピカソ アトリエにて
パブロ・ピカソ アトリエにて

近代美術の巨匠パブロ・ピカソは、友人(画家)のアトリエに招待されなくなっていった。 

それはピカソがライバルたちの新作を一目みただけで”模倣”ではなく 完全に自分の作品として創造する力を持っていたからだ。

他者の新鮮な情報を一瞬で理解し、自分の持っている情報と再構築して個性にしていった。


『アビニヨンの娘たち』1907年-1908年 パブロ・ピカソ
『アビニヨンの娘たち』1907年-1908年 パブロ・ピカソ
『ヴァイオリンと葡萄』 1912年 パブロ・ピカソ
『ヴァイオリンと葡萄』 1912年 パブロ・ピカソ

[一人では天才は生まれなかった]


画家ピカソは正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。

生涯に2回 結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。

出会った女性たちや友人、ライバルたちによって

天才ピカソも個性的な作品群も造られていったといえる。

出会いが個性になる。


「人生 La Vie」 1903年 パブロ・ピカソ  クリーヴランド美術館
「人生 La Vie」 1903年 パブロ・ピカソ  クリーヴランド美術館
パイプを持つ少年(1904年-1907年)パブロ・ピカソ
パイプを持つ少年(1904年-1907年)パブロ・ピカソ
『サルタンバンクの家族』パブロ・ピカソ
『サルタンバンクの家族』パブロ・ピカソ
『海辺を走る二人の女』1922年 パブロ・ピカソ
『海辺を走る二人の女』1922年 パブロ・ピカソ

[ピカソがわかると面白い]


「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ。」

= 多重視点構造 ⇔単視点構造(ルネサンス以降の絵画)。


『泣く女』 1937年 パブロ・ピカソ
『泣く女』 1937年 パブロ・ピカソ


『私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい』画家 マティス。 

身の丈を超す巨大な観葉植物が立ち並び、テーブルの上には多様な花でいっぱいの

植物園のような自分にとって心地よい空間、創作環境で数々の傑作を生みだしていた。


『食卓-赤の調和』 1908年 アンリ・マティス
『食卓-赤の調和』 1908年 アンリ・マティス
『赤のアトリエ』1911年アンリ・マティス
『赤のアトリエ』1911年アンリ・マティス
『帽子の女』1905年アンリ・マティス
『帽子の女』1905年アンリ・マティス
『ブルーヌー』 1952年 アンリ・マティス
『ブルーヌー』 1952年 アンリ・マティス
「ダンス(Ⅰ)」1909年アンリ・マティス
「ダンス(Ⅰ)」1909年アンリ・マティス


人の心情を描く画家キリコの絵画]


初めてかたちがないものをテーマとした形而上絵画は、「時計は、正午に比較的近い時刻を示しているのに影がひどく長い」 「走る汽車の煙はまっすぐ上に向かっている」など 作品をみる者が、静謐、郷愁、謎、幻惑、困惑、不安などを感じる。



ジョルジョ・デ・キリコ絵画
ジョルジョ・デ・キリコ絵画


新しいアートを模索した新進気鋭の画家エゴン・シーレ。 

最終的に彼が求めたものは家族との安らぎの時間だった。

家族を失った時に彼も生きていく目的をなくしてしまった。


エゴン・シーレ作品
エゴン・シーレ作品


アトリエは自宅アパートの狭いキッチン。

しかもスーツ姿で描いていた庶民派の画家マグリット。

キッチンの窓から見える風景やテーブルの上の果物など

どこにでもある身近なものから想像を膨らませ、

世界中に名をとどろかせる絵を描いていた。


『リスニングルーム』1952年 ルネ・マグリット
『リスニングルーム』1952年 ルネ・マグリット
画家マグリット
画家マグリット
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『不可能の企て』 1928年 ルネ・マグリット
『不可能の企て』 1928年 ルネ・マグリット




捜査から得たあらゆる情報と解剖学の知識から人物像を描いていく警官がいる。 

そのスキルこそ、西洋美術から伝わった「写実絵画」の本来の手法といえる。 

写実とは写真のようにただ写し取ることではなく、その対象についての情報を描くこと。


『ほつれ髪の女性』 1508年頃  レオナルド・ダ・ヴィンチ
『ほつれ髪の女性』 1508年頃  レオナルド・ダ・ヴィンチ
『顔のスケッチ』 レオナルド・ダ・ヴィンチ
『顔のスケッチ』 レオナルド・ダ・ヴィンチ


スケッチや彫刻で比較してみるとミケランジェロとロダンとでは、

女性に対する感じかたがだいぶ違ったことが分かる。


『人体スケッチ』 ミケランジェロ・ブオナローティ
『人体スケッチ』 ミケランジェロ・ブオナローティ
『リビヤの巫女のための習作』1510年頃
『リビヤの巫女のための習作』1510年頃
『ピエタ』(1498年 - 1500年) サン・ピエトロ大聖堂
『ピエタ』(1498年 - 1500年) サン・ピエトロ大聖堂
オーギュスト・ロダン  スケッチ
オーギュスト・ロダン  スケッチ
オーギュスト・ロダン 彫刻
オーギュスト・ロダン 彫刻


彫刻家はいい絵を描き、いい写真を撮る。

それは立体感覚と光を捉える感覚を磨いているから。

画家は、いい立体を造る。

それは具体的なフォルムと空間イメージを思いえがくことができるから。

専門の枠を超えた挑戦は可能性を広げ成長につながる。




[西洋と東洋]


イタリアルネサンス以前まで、その表現方法は類似したものだった。

西洋の光と影の表現(ムードメーカー)と

東洋の地と図の関係(線の表現)と

それぞれの風土、目的や思想の違いなどが それぞれ物事の捉え方や表現に影響していった。




[アート]


アートにおける”技法の進歩”ではなく、

アートについての”考え方や社会的な状況の変化”


アート ≒ 進化する思考の可視化



[アートヒストリー]


原始人は 住いの壁に生きていくためのサバイバル生活を描いた。

古代エジプトは、神と蘇った王に伝えるための記録、

古代ギリシャは、美の感動(エロス)、

古代ローマは、繁栄の証、

中世は、感情(宗教)、

ルネサンスは、真実(現実)を表現し、

バロックは、権力と交流、

王政時代が終わり産業革命と共に庶民の革命とイデオロギー、

印象派からタイムラインを描き出した。

※西洋美術の区分:【古代美術】から【キリスト教美術】へ



原始時代  :人類最古の絵、生死・サバイバル画(部族)

古代エジプト:永遠の生命(死者の書)、生け贄の身代わり(副葬品)

古代ギリシャ:絶対的な美の基本(彫刻)

古代ローマ :統制のための手段(彫像)

中世時代  :アートの暗黒時代(宗教画:モザイク画/フレスコ画)

ルネサンス期:知識と発展【人】( 研究:油彩画)

バロック時代:権力と交流(宮廷画家)            

近代美術:市民と革命                      

印象派時代:写実からの独立:制作の目的(パトロンをもたない画家)

モダンアートの時代:アバンギャルド 反体制 

コンテンポラリーの時代:価値観の再構築 

大量生産とデザイン:消費の時代(アートと社会)

アートの多様性:価値の再設定(デジタル) 


 
 
 

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