ブログ小説『”好き”というパワー――人生を動かす、小さな火』

「お父さんって、どうしてそんなに絵が好きなの?」
ずいぶん昔、息子にそう聞かれたことがある。
私はすぐには答えられなかった。
アトリエの机には、描きかけの紙が何枚も重なっていた。
鉛筆、消しゴム、擦り減った色鉛筆。
窓から差し込む午後の光が、紙の端だけを白く照らしていた。
妻は台所で夕食の支度をしている。
もう一人の息子はリビングで何かをしている。
どこにでもある家族の夕方だった。
けれど、
息子のそのひと言だけが、小さな石を水面に落としたように、私の心の奥へ波紋を広げていった。
――どうして、絵が好きなのだろう。
考えてみれば、不思議な問いである。
好きになることに、理由などあるのだろうか。
人は「役に立つから」という理由で夕焼けを好きになるわけではない。
「将来有利だから」と桜を眺めるわけでもない。
好きという感情は、いつも理屈より少し早くやってくる。
心が先に動き、理由はあとから追いかけてくる。
もしかすると、人生を動かしているものの多くは、そういうものなのかもしれない。
心の中には、まだ名前のない絵がある
私は机に置かれた一枚の紙を息子に見せた。
そこには完成した絵ではなく、何本もの線が走っていた。
描いては消し、消しては描いた跡。
人物らしきものもあれば、ただの丸や四角もある。
「これ、失敗?」
息子が聞いた。
「いや。エスキース」
「エスキース?」
「まだ絵になる前の絵だよ」
息子は首をかしげた。
私は笑った。
けれど、
本当はその言葉を口にした自分自身が、少し驚いていた。
まだ絵になる前の絵。
それは、人生にもあるのではないだろうか。
まだ言葉にならない願い。
まだ職業にならない憧れ。
まだ誰にも説明できない「やってみたい」。
私たちは大人になるにつれて、それらに早く名前をつけようとする。
「それは仕事になるのか」
「役に立つのか」
「成功するのか」
「何の意味があるのか」
けれど
心の中に生まれたばかりの「好き」は、そんな質問に答えられるほど成長してはいない。
小さな芽に向かって、
――何年後に実をつけるのか。
と問い詰めても仕方がない。
まず水をやる。
日の当たる場所へ置く。
それだけでいい。
エスキースとは、そんな時間なのかもしれない。
完成を急がず、自分の中に生まれたものを、とりあえず紙の上へ逃がしてやる。
「ここにいていいよ」
そう言ってあげる行為なのだ。
遠い家を見つめる少女

若い頃から、私はアンドリュー・ワイエスの絵が好きだった。
《クリスティーナの世界》。
広大な草原。
地面に身体を横たえた一人の女性。
遠くには、灰色がかった家がある。
彼女は背中をこちらに向け、その家を見つめている。
モデルとなったのは、ワイエスの隣人アンナ・クリスティーナ・オルソンだった。歩行が困難だった彼女は車椅子を使わず、自らの身体で移動していた。ワイエスはその姿を、単なる悲劇としてではなく、一人の人間が自分の人生を生きようとする強さとして見つめた。
だからだろうか。
あの絵を見ると、私はいつも「距離」のことを考える。
人と夢との距離。
今いる場所と、行きたい場所との距離。
クリスティーナと遠くの家とのあいだには、広い草原がある。
私たちの人生にも、ときどき同じ草原が現れる。
「あそこへ行きたい」
そう思う。
けれど、遠い。
方法も分からない。
自信もない。
それでも人間は、遠くに「好きなもの」が見えていると、不思議なことに少しずつ前へ進める。
好きなものには、距離を縮める力がある。
レオナルドの紙の上には、迷いが残っている
500年以上前のイタリアにも、紙の上で迷い続けた男がいた。
レオナルド・ダ・ヴィンチである。
私たちは彼を「天才」と呼ぶ。
しかし天才という言葉は、ときどき残酷だ。
まるで最初から答えが見えていた人のように思わせてしまうからだ。
実際のレオナルドは、描いた。
描き直した。
観察した。
考えた。
また描いた。
人物の顔。
手。
身体。
衣服。
植物。
水。
岩。
光。
彼の素描を見ると、完成作品では隠されてしまう「迷っている時間」が見える。

《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》のための大画面の素描として知られる作品にも、完成度の高い部分と、輪郭だけにとどめられた部分が共存している。
つまり、世界で最も有名な天才の一人でさえ、最初から完成形を知っていたわけではない。
考えながら描いていたのだ。
私はその事実が好きだ。
天才にも途中がある。
天才にも迷いがある。
天才にも消しゴムが必要なのだ。
そう思うと、少し救われる。
父の背中
私にとって「好き」という言葉を考えるとき、どうしても思い出す背中がある。
父の背中だ。
父も画家だった。
家にいても、父はよくアトリエにいた。
子どもの頃の私は、その姿を特別なものとは思っていなかった。
父親というものは絵を描くものだと思っていたくらいだ。
キャンバス。
絵具。
油の匂い。
筆を洗う音。
長い沈黙。
考えてみれば、ずいぶん変わった家庭だった。
けれど子どもにとって、家庭とは世界そのものだ。
父が絵を描いている風景は、私にとって夕食や風呂と同じくらい日常だった。
そして歳月が流れ、気づけば私自身も、机に向かって絵を描いている。
その背中を、今度は自分の息子たちが見ていた。
血筋という言葉だけでは説明できないものが、家族にはある。
言葉では教えていないのに、伝わっていくもの。
「これをやりなさい」ではなく、
「私はこれが好きなんだ」
と生きている姿そのものが、次の世代へ何かを手渡していく。
父から私へ。
私から息子たちへ。
それは技術ではないのかもしれない。
好きなものを持って生きてもいい、という許可証のようなものだったのかもしれない。
防空壕の人々を描いた彫刻家
イギリスの彫刻家ヘンリー・ムーアも、膨大な素描を残した。
彼のスケッチブックには、彫刻の構想だけでなく、動物や自然、そして日常の中で出会った形が描き留められている。



第二次世界大戦中、ロンドンが空襲にさらされると、人々は地下鉄の駅へ避難した。
ムーアはそこで目にした人々を記憶し、素早いメモやスケッチをもとに、のちに「シェルター・ドローイング」と呼ばれる作品群へ発展させていった。
地下に横たわる無数の身体。
恐怖の夜。
それでも寄り添う人々。
芸術とは、美しいものだけを描くことではない。
人間が生きているという事実を、忘れないために描くこともある。
好きだから見る。
好きだから観察する。
好きだから記録する。
そして好きだからこそ、苦しんでいる世界から目をそらさない。
「好き」という力は、単なる趣味を超えたところまで、人を連れていくことがある。
パリから一歩も出ずに、ジャングルを描いた男


私はアンリ・ルソーの話も好きだ。
彼のジャングルには、巨大な葉が茂り、虎が潜み、蛇使いが月夜に笛を吹く。
ところがルソーは、その熱帯のジャングルを実際に旅して描いたわけではなかった。
彼はパリの植物園へ通った。
植物を見た。
動物を見た。
さまざまな図版やイメージを吸収した。
そして、それらを自分の頭の中で組み替えた。
すると、現実には存在しない「ルソーのジャングル」が生まれた。
これほど痛快な話もない。
世界中を旅しなければ、世界は描けないのではない。
遠くへ行けなくても、想像力は旅ができる。
必要なのは、ときとして航空券より「好き」である。
好きなものをじっと見る。
何度も見る。
もっと知りたいと思う。
そのうち現実の断片が心の中で発酵し、誰にも見たことのない世界へ変わっていく。
創造とは、無から何かを生み出す魔法ではない。
好きで集め続けたものが、ある日、自分の中で化学反応を起こすことなのだ。
「好き」は効率が悪い
夕食になった。
妻が、
「ごはんですよ」
と呼んだ。
私は、
「あとちょっと」
と答えた。
すると息子が笑った。
「いつも、あとちょっとって言うよね」
確かにそうだった。
好きなことをしている人間の「あとちょっと」は、信用できない。
五分が三十分になり、
三十分が一時間になる。
時計を見ることさえ忘れている。
考えてみれば、「好き」という感情は、現代社会が求める効率とは相性が悪い。
役に立つかどうか分からないことに何時間も費やす。
同じ絵を何度も見る。
同じ線を何度も描く。
同じ山を何度も眺める。
同じ音楽を何度も聴く。
合理的に考えれば無駄である。
けれど
人間の人生を豊かにしてきたものの多くは、最初は「無駄」に見えたのではないだろうか。
子どもの落書き。
意味のない鼻歌。
道端の石集め。
星を眺める時間。
本を読む時間。
絵を描く時間。
好きだから続けているうちに、その人だけの世界ができていく。
だから私は、効率だけで人生を測ることを、少し怖いと思う。
効率は目的地へ早く着く方法を教えてくれる。
けれど、
「どこへ行きたいのか」
までは教えてくれない。
それを教えてくれるものの一つが、「好き」なのだ。
人生のエスキース
食後、私は再び机へ戻った。
昼間描いた紙が、そのまま残っていた。
描き損じた線。
途中で止まった線。
何を描こうとしたのか、自分でも分からなくなった形。
以前なら、それらを「失敗」と呼んでいたかもしれない。
けれど今は違う。
人生もまた、一枚の大きなエスキースなのではないかと思う。
描いてみる。
違ったと思えば消す。
また描く。
予定していた線から外れる。
偶然できた形が面白くなる。
そして、いつの間にか最初に想像していたものとはまったく違う絵になっている。
それでいい。
むしろ、その方がいい。
人生には完成予想図などないのだから。
小さな火を消さない
歳を重ねると、人は「できない理由」を上手に説明できるようになる。
時間がない。
お金がない。
才能がない。
もう若くない。
今さら始めても遅い。
けれど、
好きという感情は、そんな大人の理屈を知らない。
「やってみたい」
ただ、それだけである。
私は思う。
人生を変えるものは、必ずしも大きな決断ではない。
一冊の本を手に取ることかもしれない。
一本の鉛筆を買うことかもしれない。
行ったことのない美術館へ入ることかもしれない。
昔好きだったことを、もう一度始めることかもしれない。
好きという感情は、小さな火だ。
放っておけば消える。
けれど大切に守れば、やがて自分の足元を照らし始める。
そして不思議なことに、自分の火を大切にして生きている人は、ときどき誰かの暗闇まで照らしてしまう。
父の背中が、そうだったように。
「どうして好きなの?」
あの日の息子の質問を、私は今でもときどき思い出す。
「どうして絵が好きなの?」
あのとき、うまく答えられなかった。
今なら、少しだけ答えられる気がする。
好きだから、見えるものがある。
好きだから、続けられることがある。
好きだから、出会える人がいる。
好きだから、越えられる夜がある。
そして
好きなものを持っていると、人は人生の中に「帰る場所」を一つ持つことができる。
うまくいかない日もある。
自信を失う日もある。
誰かと比べて、自分がひどく小さく見える日もある。
そんな夜、好きなもののところへ帰ればいい。
絵でもいい。
音楽でもいい。
本でもいい。
料理でも、植物でも、山でもいい。
上手である必要などない。
誰かに認めてもらう必要もない。
「好き」は、評価されるために生まれた感情ではないのだから。
窓の外を見る。
夕方の光が、ゆっくり街を包んでいる。
机の上には、まだ完成していない一枚の絵がある。
私は鉛筆を持つ。
そして、もう一本だけ線を引く。
その一本が何になるのかは、まだ分からない。
それでいい。
レオナルドも、ムーアも、ルソーも、そして父も、きっと最初の一本を引いたときには、その先に何が待っているのか知らなかった。
ただ、
描きたかった。
知りたかった。
見たかった。
好きだった。
人生とは案外、そんな単純な力によって、静かに遠くまで運ばれていくものなのかもしれない。
完成図などなくてもいい。
まだエスキースの途中でいい。
あなたの中に、
「なぜか分からないけれど、好きだ」
というものが一つでも残っているのなら――
そこにはまだ、
これから始まる人生がある。



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