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短編小説集『王冠のない王たち』

執筆者の写真: 聖二 文田
聖二 文田
3 時間前
読了時間: 22分


――人はなぜ、誰かを越えようとして、自分を見失うのか。

権力、野望、時間、知識、孤独。そして、希望。




はじめに――五つの物語に流れる、一つの問い


人は、何のために高いところを目指すのだろう。

誰かより優れた人間になるためだろうか。それとも、誰かを幸せにするためだろうか。

歴史を振り返れば、人類は幾度となく巨大な塔を築き、王冠を奪い合い、国境を引き直してきた。

けれど、どれほど高い場所に立っても、人間は人間であることから逃れられない。

そして不思議なことに、人間が最も美しく見える瞬間は、誰かの上に立ったときではなく、誰かの隣に腰を下ろしたときなのかもしれない。


本短編集は、文田聖二ブログ 『The king who tried to overcome people』 に収められた五つの文章を原点に創作した連作短編小説集である。



文田聖二 SEIJI FUMITA

収録作品

  1. 『人を越えようとした王様』 ――世界を支配した男が、最後まで手に入れられなかったもの

  2. 『王様になろうとした家来』 ――正義を掲げた青年が、かつて憎んだ王になった日

  3. 『忘れがちな流れ』 ――止まった時計が教えてくれた、生きるということ

  4. 『許される範囲』 ――天まで届く塔を造った少女と、壊れた言葉の物語

  5. 『閉鎖された塔』 ――世界を変えられなかった老人が、ひとりの少年に残した光







第一編 人を越えようとした王様

――世界を支配した男が、最後まで手に入れられなかったもの



《人を越えようとした王様》 文田聖二
《人を越えようとした王様》 文田聖二


一 王様は、夜が怖かった


その国の王は、世界で最も高い場所に住んでいた。

王宮は山の頂にあり、寝室の窓からは、国中の家々が豆粒のように見えた。


王は毎朝、その景色を眺めながら満足そうにうなずいた。

「今日も、すべてが私の下にある」


ところが、夜になると様子が変わった。

王は眠れなかった。

暗闇の向こうで、誰かが自分を笑っているような気がした。

遠くの村で人々が集まっていると聞けば、反乱の相談ではないかと疑った。

隣国の王が病に倒れたと聞けば、次は自分ではないかと怯えた。


王には、あらゆるものがあった。

黄金も、軍隊も、広大な領土も。

けれど、安心だけがなかった。


ある夜、王は宮廷画家を呼びつけた。

「私の肖像画を描け。歴史に残る、世界で最も偉大な王として」

画家は七日七晩、王の姿を描き続けた。

完成した絵には、黄金の玉座に座る威厳に満ちた王が描かれていた。


しかし王は、その絵を見るなり怒りだした。

「なぜ私の目が、こんなにも寂しそうなのだ」

画家は静かに答えた。

「陛下。私は、見えたものを描いただけでございます」


翌朝、画家は王宮から追放された。




二 小さな椅子を作る老人


その国の外れに、椅子を作る老人がいた。

老人の作る椅子は、特別に美しいわけではなかった。

脚の長さが少し違ったり、木目が曲がっていたりした。

それでも、不思議と座り心地がよかった。


ある日、王は変装して老人の工房を訪ねた。

「世界で最も立派な椅子を作れるか」

老人は木を削る手を止めずに答えた。

「誰が座る椅子ですか」

「この国で最も偉い人間だ」

「それなら、まずその人を連れてきてください」


王は腹を立てた。

「なぜだ。寸法さえあれば作れるだろう」

老人は笑った。

「寸法だけでは、その人が疲れているかどうかはわかりませんから」


王は黙った。

老人は続けた。

「偉い人ほど、座る場所がたくさんあるのでしょうな。でも、安心して腰を下ろせる場所は、案外少ないのかもしれません」


王は、その言葉を忘れることができなかった。




三 天に届く宮殿


やがて王は、巨大な塔を建てるよう命じた。

どの山よりも高く、どの神殿よりも壮麗な塔。

塔の最上階には、自分だけの玉座を置く。

そこからなら、誰も自分を見下ろすことはできない。


何万人もの人々が働いた。

石を運ぶ者。

煉瓦を焼く者。

足場を組む者。

そして、工事中に命を落とす者。

王は毎日、塔の高さだけを報告させた。


ある日、若い石工が王の前に進み出た。

「陛下。父が塔の工事で亡くなりました」

「そうか。褒美を与えよう」

「褒美はいりません」

「では、何が欲しい」


青年は震える声で言った。

「父の名前を、覚えていてください」

王は答えられなかった。

彼は塔の高さを知っていた。

石の数も、工事に費やした黄金の量も知っていた。


しかし、そこで働く人間の名前を、一人も知らなかった。




四 最後の夜


数十年が過ぎた。

塔はついに完成した。

王は、雲を見下ろす最上階の玉座に座った。


地上の人々は、もう見えなかった。

笑い声も聞こえなかった。

王は満足するはずだった。

ところが、その日から王は、いっそう孤独になった。


ある冬の夜、王は病に倒れた。

医師も、祈祷師も、国中の薬草も役に立たなかった。


王は最後に、かつての宮廷画家を呼ぶよう命じた。

画家は、すでに亡くなっていた。

代わりに現れたのは、画家の娘だった。


彼女は一枚の小さな絵を持ってきた。

そこには、粗末な食卓を囲む三人の家族が描かれていた。

父と母と、幼い子ども。

窓から差し込む夕日が、食卓のパンを照らしていた。


王は長い間、その絵を見つめた。

「これは、誰の家族だ」

「父が、亡くなる前に描いた私たちです」

「なぜ、こんな絵を描いた」

娘は少し考えて答えた。

「幸せだったからだと思います」


王は、絵の中の小さな椅子を見つめた。

かつて工房で出会った老人の言葉が蘇った。


王は初めて、自分の人生を振り返った。

人々の上に立つことばかり考えていた。

誰かに勝つことばかり考えていた。

けれど、誰かと食卓を囲んだ記憶がなかった。


「私は……」

王はかすれた声でつぶやいた。

「私は、どこに座ればよかったのだろう」

娘は王の手を取った。

「ここでよろしいのではありませんか」

その夜、王は生まれて初めて、誰かに手を握られたまま眠った。


翌朝、王は静かに息を引き取っていた。


巨大な塔は、その後、幾度もの戦争と地震によって崩れ去った。

王の名を刻んだ石碑も、やがて読めなくなった。

しかし、王の最期に立ち会った娘が描いた一枚の絵だけは、長く人々に受け継がれた。


そこには、豪華な王冠も、黄金の玉座もなかった。

ただ、年老いた男が、若い娘の手を握りながら、安らかに眠っている姿が描かれていた。

その絵には、こんな題名がつけられていた。


『人間になった王様』







第二編 王様になろうとした家来

――正義を掲げた青年が、かつて憎んだ王になった日



《王様になろうとした家来》 文田聖二
《王様になろうとした家来》 文田聖二


一 正しい怒り


少年レオンは、王宮の床を磨く仕事をしていた。

父は石工だった。

巨大な塔の建設中に事故で亡くなり、母は病気がちだった。


レオンは幼いころから、王を憎んでいた。

「どうして、王様だけが贅沢をしているの」

母に尋ねると、母は決まって答えた。

「王様も、きっと何かに困っているのよ」


少年には理解できなかった。

困っているのなら、どうして黄金の食器を使うのだろう。

困っているのなら、どうして人々から税を取り立てるのだろう。

レオンは心に誓った。


いつか自分が王になったら、すべてを変えてやる。




二 人々のために


年月が過ぎ、レオンは優秀な官吏となった。

彼は誰よりも働いた。

不正を暴き、貧しい者に食料を配り、役人たちの怠慢を厳しく追及した。

人々は彼を英雄と呼んだ。


王が亡くなり、国が混乱すると、レオンは民衆の支持を集めて新しい指導者となった。

即位の日、彼は宣言した。

「私は、誰も苦しまない国を作る」

人々は歓声を上げた。


ところが、一年が過ぎるころから、国の様子が変わり始めた。

レオンは、自分の政策に反対する者を許さなくなった。

「私は民衆のために働いている。なぜ反対するのだ」


ある役人が言った。

「陛下。人々の望みは、一つではありません」

レオンは怒った。

「ならば、正しい望みを教えてやればいい」


役人は、その日のうちに職を解かれた。





三 王冠の重さ


ある日、レオンは国中の学校に、自分の肖像画を掲げるよう命じた。

子どもたちが毎朝、彼の功績を学ぶようにした。

さらに、人々の幸福を数値で測る制度を導入した。

食料の生産量。

家の広さ。

労働時間。

医療施設の数。


すべてが以前より改善していた。

それなのに、国から笑顔が消えていった。

レオンは理解できなかった。

「こんなに豊かになったのに、なぜ人々は満足しない」


ある日、一人の少女が王宮に連れてこられた。

少女は学校で、王の肖像画に落書きをしたのだという。

レオンは尋ねた。

「なぜ、こんなことをした」

少女は答えた。

「王様の顔が、いつも怒っているから」

レオンは絶句した。

「だから、笑っている顔に描き直したの」


少女が落書きした王の肖像画が差し出された。

立派な王冠、

豪華な衣装、

けれど顔には、子どもが描いた大きな笑顔があった。


レオンはその絵を見て、なぜか泣きそうになった。




四 最後の命令


数年後、反乱が起きた。

かつてレオンを支持した人々が、今度は彼を追放しようとしていた。


家臣たちは軍隊を出すよう進言した。

「陛下。反逆者を討ちましょう」

レオンは命令書に署名しようとした。

そのとき、机の上に置かれた少女の絵が目に入った。

笑っている自分。

その顔は、今の自分とはまるで違っていた。


彼は突然、幼いころの母の言葉を思い出した。

王様も、きっと何かに困っている。

あのころの自分は、王が何に困っているのか知ろうとしなかった。

そして今、自分も同じ場所に立っていた。


レオンは命令書を破った。

「軍隊は出さない」

「陛下、それでは王宮が奪われます」

「そうだろうな」


彼は王冠を外した。

「だが、国まで壊す必要はない」


翌朝、レオンは王宮を去った。

彼が最後に出した命令は、国中に掲げられた自分の肖像画を取り外すことだった。

ただし、一枚だけ残した。

あの少女が描いた、笑顔の王様の絵である。


数年後、地方の小さな学校に、一人の老人がやって来た。

老人は子どもたちに読み書きを教え、絵を描く時間を何より大切にした。


ある日、子どもが尋ねた。

「先生は、昔、何をしていたの」

老人は少し考えた。

「人を幸せにしようとして、失敗していたんだ」

「どうして失敗したの」

「幸せが何かを、本人に聞かなかったからだよ」


子どもは首をかしげた。

「じゃあ、今は何をしているの」

老人は微笑んだ。

「聞く練習をしている」


その日の授業では、子どもたちが思い思いの絵を描いた。

誰一人として、同じ絵を描かなかった。

老人は、そのことが嬉しかった。


人を導くことと、人を自分の望む方向へ動かすことは、似ているようで、まったく違う。






第三編 忘れがちな流れ

――止まった時計が教えてくれた、生きるということ



《忘れがちな流れ》 文田聖二
《忘れがちな流れ》 文田聖二


一 時計のない朝


時計職人のハルは、ある朝、時間を失った。

正確には、町中の時計が止まったのである。


午前八時十七分。

広場の時計も、駅の時計も、学校の時計も。

誰も理由がわからなかった。


人々は困り果てた。

電車は遅れ、会議は中止され、工場の機械は止まった。

ところが、ハルの祖母だけは平然としていた。

「おや、今日はいい天気だねえ」

「おばあちゃん、時計が全部止まったんだよ」

「そうかい」

「そうかい、じゃないよ。何時かわからないんだ」


祖母は窓の外を見た。

「もうすぐ、お昼だろうね」

「どうしてわかるの」

「お腹がすいたからさ」


ハルは呆れた。




二 未来ばかり見ていた男


ハルの父は、大きな会社で働いていた。

毎朝、日の出前に家を出て、夜遅く帰ってきた。


父の口癖は、いつも同じだった。

「今は忙しいけど、もう少ししたら楽になる」

ハルが幼いころ、父はそう言った。

小学校に入っても、同じことを言った。

中学校を卒業するときも、父は忙しかった。

ハルはいつの間にか、父を誘わなくなった。


ある日、祖母が古い写真箱を持ってきた。

そこには、若い父が幼いハルを肩車している写真があった。

二人とも、声が聞こえてきそうなほど笑っていた。

「こんなこと、あったんだ」

祖母は答えた。

「お父さんも、昔は時間を忘れて遊んでいたんだよ」

ハルは写真を見つめた。


父にも、そんな時代があったのか。




三 流れの外側


時計が止まって三日目。

町の人々は、少しずつ変わり始めた。


広場では、老人たちが日なたぼっこを始めた。

子どもたちは、学校の帰りに川へ寄り道した。

商店街では、客と店主が長話をするようになった。

それまで誰も気に留めなかった小さな花が、石垣の隙間に咲いていることに気づいた人もいた。


ハルは、祖母と一緒に川辺を歩いた。

「時間が止まるって、悪いことばかりじゃないね」

祖母は笑った。

「時間は止まっていないよ」

「でも、時計は止まっている」

「時計と時間は、同じものじゃないからね」


川面に、夕日が揺れていた。

祖母は小石を拾って、水面に投げた。

波紋が広がった。


「人間はね、時計で時間を測れるようになった。でも、自分が生きている時間まで、時計に決めてもらう必要はないんだよ」




四 最後の修理


四日目の朝、ハルは時計が止まった原因を発見した。

町の中央にある大時計の制御装置が故障し、それに連動する時計網が停止していたのだ。


修理は難しくなかった。

部品を交換すれば、町の時計は再び動き始める。


その日の夕方、ハルは最後のねじを締めた。

大時計の針が動き始めた。


町中から歓声が上がった。

人々は再び忙しくなった。

電車が走り、工場が動き、会議が始まった。

何もかもが元に戻ったように見えた。

けれど、一つだけ変わったことがあった。

ハルの父が、毎週日曜日に仕事を休むようになったのである。


ある日、父はハルを川釣りに誘った。

「どうしたの、急に」

父は少し照れくさそうに答えた。

「昔、おまえと行こうと思っていた場所があるんだ」


二人は朝から川辺に座った。

魚は一匹も釣れなかった。

父は何度も時計を見ようとして、そのたびに手を止めた。


やがてハルが言った。

「お父さん、今日は何時までいるの」

父は川を見つめながら答えた。

「帰りたくなるまで、かな」

ハルは笑った。

父も笑った。


二人の間を、川が静かに流れていた。

その川は、昔からそこにあった。

これからも、きっと流れ続ける。

しかし、その日、二人が一緒に見た川の色だけは、二度と同じにはならない。

ハルは初めて、それを美しいと思った。


人生で本当に失ってしまう時間とは、過ぎ去った時間ではない。生きていることに気づかず、通り過ぎてしまった時間なのかもしれない。






第四編 許される範囲

――天まで届く塔を造った少女と、壊れた言葉の物語



《許される範囲》 文田聖二
《許される範囲》 文田聖二


一 世界で一番高い場所


少女ミナは、塔の町に生まれた。

町の中央には、天まで届くといわれる巨大な塔があった。

塔は何百年も前から建設されていた。

父も祖父も、そのまた祖父も、塔を造る仕事をしていた。


ミナは幼いころから、不思議に思っていた。

「どうして、そんなに高くするの」

父は答えた。

「天に近づくためさ」

「天に近づくと、何があるの」

父は困った顔をした。

「それは、誰も知らない」

「知らないのに、造っているの?」

父は笑った。


「人間というのは、そういうものなのかもしれないな」




二 言葉の違う人々


塔には、遠い国からも大勢の職人が集まっていた。

違う言葉を話し、違う神に祈り、違う料理を食べる人々。

ミナは、その多様な世界が好きだった。


ある日、外国から来た少年と友達になった。

少年の名前は、ルカといった。

二人は互いの言葉をほとんど知らなかった。

それでも、毎日一緒に遊んだ。

石を並べて動物の形を作ったり、砂の上に絵を描いたりした。


ある日、ミナはルカに尋ねた。

「あなたの国では、ありがとうって何て言うの」

ルカは自分の国の言葉で答えた。

ミナは何度も繰り返した。

発音がうまくできず、二人は笑い転げた。


そのころ、塔の建設現場では、争いが増えていた。

石の運び方。

壁の積み方。

働く時間。

食事の順番。

互いの言葉が通じず、誤解が重なっていた。


ある日、大きな事故が起きた。

一人の職人が危険を知らせたが、別の国の職人には、その意味が伝わらなかった。

足場が崩れ、何人もの人が負傷した。

人々は互いを責めた。


やがて塔の建設は中止された。




三 壊れた塔の絵


数百年後。

遠いヨーロッパの町で、一人の画家が巨大な塔の絵を描いていた。

画家の名は、ピーテル・ブリューゲル。


1563年、彼が描いた《バベルの塔》には、空に向かって積み上がる巨大な建造物と、その周囲で働く無数の人間たちが描かれていた。


《バベルの塔》 1563年 ピーテル・ブリューゲル ウィーン美術史美術館所蔵
《バベルの塔》 1563年 ピーテル・ブリューゲル ウィーン美術史美術館所蔵


ブリューゲルが生きた16世紀のヨーロッパは、宗教改革や政治的対立によって、人々の価値観が大きく揺れ動いていた時代だった。

旧約聖書『創世記』のバベルの塔の物語では、人間たちが天に届く都市と塔を築こうとし、言葉が通じなくなったことで各地へ散らばっていく。

だが、ブリューゲルの絵には、聖書の物語を超えた人間社会の姿がある。


巨大な塔の前で、小さな人間たちが働いている。

誰かが石を運び、誰かが設計し、誰かが命令する。

塔は壮麗でありながら、どこか危うい。

まるで、人間の野望そのものが建築物になったかのようだった。




四 天より高いもの


さらに長い年月が過ぎた。

現代の美術館で、一人の少女が《バベルの塔》を見つめていた。

少女の名前も、ミナだった。


彼女は母に尋ねた。

「この塔は、どうして完成しなかったの」

母は答えた。

「昔の人は、言葉が通じなくなったからだと考えたのよ」


ミナはしばらく絵を眺めていた。

「でも、言葉が通じなくても、友達にはなれるよね」

母は驚いた。

「どうして、そう思うの」

「うちの学校に外国から来た子がいるの。最初は何を話しているかわからなかったけど、一緒に絵を描いたら仲良くなったよ」

母は微笑んだ。


少女は続けた。

「この塔の人たちも、みんなで絵を描けばよかったのに」

母は答えなかった。

けれど、その言葉はいつまでも心に残った。


その夜、母はニュースを見ていた。

国境をめぐる争い。

宗教の違いによる対立。

人工知能の発達によって、かつてない速さで情報が広がる社会。

人間は遠く離れた人とも瞬時につながれるようになった。

それでも、互いを理解することは、相変わらず難しかった。


母は、昼間の娘の言葉を思い出した。

人間は、言葉を増やし、知識を増やし、技術を発達させてきた。

しかし、それだけで相手の痛みがわかるようになるわけではない。


翌日、少女は学校で一枚の絵を描いた。

巨大な塔の絵だった。

けれど、その塔は天に向かって伸びていなかった。

横へ、横へと広がっていた。


塔の中には、たくさんの窓があり、違う国の人々が顔を出していた。

中央には、大きな広場があった。

そこでは、子どもたちが一緒に遊んでいた。


先生が尋ねた。

「これは、何の塔なの」

ミナは答えた。

「誰でも入れる塔」

「どこまで高くなるの」

「高くならなくていいの」

少女は笑った。

「だって、みんなが一緒にいられるから」


人間の器の大きさは、どれほど多くの知識を入れられるかではなく、どれほど違う人間を受け入れられるかで決まるのかもしれない。






第五編 閉鎖された塔

――世界を変えられなかった老人が、ひとりの少年に残した光



《閉鎖された塔》 文田聖二
《閉鎖された塔》 文田聖二


一 誰も入れない美術館


海の見える町に、古い美術館があった。

美術館の中央には、石造りの塔が立っていた。

かつては展望台として使われていたが、老朽化のため長い間閉鎖されていた。


美術館の管理人をしている老人、ソウイチは、毎朝その塔を見上げた。

若いころ、彼は画家を志していた。

世界を変えるような絵を描きたいと思っていた。


戦争をなくす絵。

人々の心を動かす絵。

悲しんでいる人を救う絵。

しかし、何十年描き続けても、世界から争いがなくなることはなかった。


ある日、ソウイチは絵筆を置いた。

「絵なんか描いても、何も変わらない」


それから長い年月が過ぎた。




二 絵を描けない少年


ある雨の日、一人の少年が美術館にやって来た。


少年の名は、ユウ。

学校に行けなくなって半年が過ぎていた。

教室に入ると、胸が苦しくなる。

友達の視線が怖い。

何をしても、誰かと比べられているような気がした。


母に連れられて美術館へ来たものの、少年は展示室の隅に座り込んでいた。

ソウイチが声をかけた。

「絵は好きかい」

少年は首を横に振った。

「下手だから」

「誰に言われた」

「先生とか、友達とか」

老人は少し考えた。

「じゃあ、上手に描くのをやめてみようか」

少年は顔を上げた。

「どういうこと?」


老人は紙と鉛筆を持ってきた。

「まず、好きな線を一本描いてごらん」

少年は、ためらいながら線を引いた。

曲がった線だった。

老人はその隣に、もう一本の線を描いた。

それも、曲がっていた。

二本の線は、どこかで交わった。


老人は笑った。

「ほら、道ができた」

少年も、少し笑った。




三 開かない扉


それから少年は、毎週美術館へ来るようになった。


二人は絵を描いた。

海を描き、雲を描き、窓から差し込む光を描いた。


ある日、少年が閉鎖された塔を指さした。

「あそこには、何があるの」

「昔の展望台だよ」

「登ってみたい」

「危ないから入れないんだ」

少年は残念そうにした。


しばらくして、彼は尋ねた。

「どうして、壊れたままにしているの」

老人は答えた。

「直すお金がないんだよ」

「じゃあ、僕が大人になったら直す」

老人は笑った。

「それは楽しみだ」


少年は真剣な顔で続けた。

「でも、展望台じゃなくて、絵を描く場所にしたい」

「どうして」

「学校に行けない子も、絵が下手だと思っている子も、誰でも入れる場所」

老人は黙って聞いていた。


少年は続けた。

「誰かと比べなくていい場所が、あったらいいな」


その言葉を聞いたとき、老人は、自分が何十年も忘れていたものを思い出した。

若いころ、自分も同じことを考えていた。


世界を変える絵を描こうとしていた。

しかし、世界を変えることばかり考えて、目の前の一人を見失っていた。




四 最後の展覧会


翌年、老人は小さな展覧会を開いた。

題名は『描けなかった人たちの絵』。


展示されたのは、上手な絵ではなかった。

震える手で描いた線。

途中でやめてしまった風景。

色を塗り間違えた花。

そして、何度も消しゴムで消した跡の残る自画像。


展覧会には、町の人々が集まった。

ある女性は、幼い娘の絵を見て泣いた。

ある老人は、亡くなった妻が残したスケッチを持ってきた。

ある青年は、十年ぶりに鉛筆を握った。


ソウイチは、その光景を見ながら思った。

自分は、世界を変えるような絵を描けなかった。

けれど、誰かがもう一度描き始めるきっかけを作ることはできた。


それは、若いころ夢見ていたこととは違っていた。

しかし、思いがけないほど、嬉しかった。




五 塔の向こうに見えたもの


数年後、ソウイチは静かに亡くなった。


遺品の中から、一枚の未完成の絵が見つかった。

そこには、閉鎖された塔が描かれていた。


塔の扉は開いていた。

中から、温かな光が漏れていた。


絵の裏には、小さな文字でこう書かれていた。

「まだ、開けられる扉がある」


それから二十年が過ぎた。

美術館の塔は修復され、誰でも自由に絵を描ける場所になった。

塔の名前は『ひらかれた場所』。

運営しているのは、かつて学校に行けなかった少年、ユウだった。


ある日、小さな女の子がやって来た。

「先生、私、絵が下手なの」

ユウは笑った。

「そうか。じゃあ、好きな線を一本描いてみよう」


少女は鉛筆を握った。

少し曲がった線を引いた。

ユウは、その隣にもう一本の線を描いた。

二本の線が交わった。

「ほら、道ができた」

少女は笑った。


その瞬間、ユウは遠い昔の老人の声を聞いた気がした。

窓の外では、海が輝いていた。


人々は相変わらず争い、世界には悲しいニュースがあふれていた。

しかし、その小さな塔の中では、今日も誰かが新しい絵を描き始めていた。

そして、その絵を描いた人の人生は、描く前とは少しだけ違っていた。


世界を変えることはできなくても、誰かの世界が変わる瞬間に立ち会うことはできる。






終章 王冠のない王たち


ある美術館に、五枚の絵が並べられた。

一枚目には、巨大な玉座に座る孤独な王が描かれていた。

二枚目には、王冠を外して子どもたちに囲まれる老人が描かれていた。

三枚目には、時計のない川辺で笑う父と息子が描かれていた。

四枚目には、横へ横へと広がる、不思議な塔が描かれていた。

そして五枚目には、開かれた扉から光が漏れる、小さな石造りの塔が描かれていた。


五枚の絵には、共通するものがあった。

どの絵にも、人間が描かれていた。


誰かに勝とうとする人間。

誰かを支配しようとする人間。

時間に追われる人間。

天に届こうとする人間。

そして、誰かの隣に座ろうとする人間。


その美術館を訪れた一人の少年が、母親に尋ねた。

「ねえ、王様って、何をする人なの」

母親は答えた。

「国を治める人、かな」


少年は首をかしげた。

「でも、この絵の王様は、みんな寂しそうだね」

母親は少し考えた。

「そうね」

「じゃあ、王様にならなくてもいいや」

少年は笑った。

「僕は、誰かと一緒に絵を描く人になりたい」

母親は少年の手を握った。


美術館の外には、秋の柔らかな日差しが降り注いでいた。

遠くでは、子どもたちが遊んでいた。

その笑い声は、どんな王宮の鐘よりも美しく響いていた。


かつて、人類は天に届く塔を造ろうとした。

誰よりも高い場所へ行こうとした。

誰よりも強くなろうとした。

しかし、何千年という時間をかけても、人間は一つのことを学び終えていない。

それは、誰かと共に生きるという、ごく当たり前のことである。


誰かより優れていなくてもいい。

誰かに勝たなくてもいい。

誰かと同じ速さで歩かなくてもいい。

自分の足で、自分の道を歩けばいい。

疲れたら立ち止まればいい。

そして、道に迷っている人がいたら、少しだけ隣を歩いてあげればいい。


人間が人間を越える必要など、最初からなかったのかもしれない。

私たちは、人間であることを、もっと深く知ればよかったのだ。






あとがき――歴史に残らなかった人々へ


歴史には、数え切れないほどの王の名前が残されている。

彼らが建てた宮殿、戦った戦争、獲得した領土。

しかし、その時代に生きた無数の人々の名前は、ほとんど残されていない。


古代エジプトの巨大な建造物を支えた職人たち。

中世ヨーロッパの大聖堂に石を積んだ人々。

江戸の町で、名も知られず暮らした庶民たち。


彼らもまた、誰かを愛し、何かに悩み、明日の幸福を願っていた。


芸術が教えてくれるのは、歴史に名前を残した人間だけが、価値ある人生を生きたわけではないということである。


たとえば、レンブラントが晩年に描いた《放蕩息子の帰還》。


《放蕩息子の帰還》1668年代後半頃 レンブラント・ファン・レイン エルミタージュ美術館所蔵
《放蕩息子の帰還》1668年代後半頃 レンブラント・ファン・レイン エルミタージュ美術館所蔵


そこには、財産を失い、傷ついて帰ってきた息子を、静かに抱きしめる父親が描かれている。

父親は、息子に勝とうとしていない。

説教もしていない。

ただ、帰ってきた息子を受け入れている。

その姿には、王冠も、権力も、勝利もない。

しかし、人間が到達できる最も深い豊かさの一つが、そこには描かれているように思える。


現代社会は、私たちに絶えず競争を求める。

より高い評価。

より多くの収入。

より速い成果。

より大きな影響力。


けれど、人生の最後に思い出すのは、きっと数字ではない。

誰かと笑ったこと。

誰かに助けられたこと。

誰かの手の温かさ。

何気なく見上げた空の色。

そして、もう一度会いたいと思う人の顔。


それらは、歴史の教科書には残らないかもしれない。

けれど、人間が生きたという事実は、そうした小さな時間の中にこそ宿っている。


五つの物語に登場した人々も、結局のところ、同じ場所へ帰っていった。

誰かの上ではなく、誰かの隣へ。

そこにこそ、人間が人間として生きる、美しさがあるのだろう。


人は、誰かを越えるために生まれてきたのではない。

誰かと出会い、自分にしか生きられない人生を、誰かと分かち合うために生まれてきたのだ。




                       ――短編小説集『王冠のない王たち』了





 
 
 

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